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雪が降ってきた。
ゆっくりと降ってくる雪のひとひら、ひとひらを数えてみる。
暗い高台から遠く街明かりを望んだとき、明かりのひとつひとつに人の暮らしがあることに改めて気づいて驚くことがある。一人一人の時間がすべて、ある一点に向かい、帰結しようとしていること。当たり前ではあるけれど、不思議さは続く。
漂いながら、それでもすべてが同じ場所に向かって降りてくる雪は、僕たちに流れる時間と同じなのかもしれない。
雪があるから生きていけると思えるほど、いつも雪は美しい。

言葉の先

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風景には言葉があるのだろうか。

言葉たち

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前回から長い時間がたって、いろいろと書きたいことがあるけれど、いまひとつ言葉の群れがまとまってこない。雪原の朝に並ぶ雪の結晶のような言葉たち。

柔らかな毛並み

今日、奈良の実家で飼われていた犬が死んだということを母から電話で告げられた。
ランという名前のその犬は僕が実家を出てから飼われた犬だったので、一緒に暮らしたことはない。それでも、帰省するといつも穏やかな顔で迎えてくれる気立てのいい優しい犬だった。
様々な犬種が混じり合っていると思わせるその姿は、決して美人とは言えるものではなかったけれど、とても愛嬌があって可愛い犬だった。
ランは野良犬としてうろついていたところを拾われたからか、食い意地は張っていたけれど、人や犬に対する警戒心はほとんどなく、いつだったか、僕がうちのさくらを連れて帰省した際には、自分より若いさくらに対し、まるで妹のように振る舞って、後ろをついて歩いていた。
 
ランが亡くなったので病院で、最期は安楽死という方法がとられたらしい。ずっと病気知らずで生きてきたけれど、17歳という高齢からか、最終的には口の中に癌を患い、おそらくいろんな場所に転移してしまって手のほどこしようがないという状態だったらしい。
食事ができなくなってしまったこと、歩けなくなってしまったこと、痛みがひどくなり、それを鎮めることはできないこと。かかりつけの獣医といろんな方向性を考えた上で、結局、一本の注射でランは逝った。

僕としては、犬の安楽死がどういうものか。経験したことはなく、何の言葉も持ち合わせていない。
ただ、僕としては、ずっと犬のいる家庭に育ち、おそらく、年老いた両親にとっては最後の犬になること。今日はそんな日だったんだなということを考えたりした。

ボビー、ラナ、ラン、そして、僕が今暮らしているさくら。
犬の一生は短いとはいえ、それは人とて同じようなもので、一生で付き合える犬の数は、それほど多くはないだろう。何より、犬を見送ることはとても辛く、もう新しい犬を迎えることができないということも少なくないだろう。
でも、僕は犬を見送ることは、悲しみであると以上に喜びでもあると信じている。

犬たちはいつも僕たちのことを待っている。
半日の留守番はもちろんのこと、一時間の留守番でも、彼らは何年も会っていなかったかのように喜んでくれる。夜中ももちろん厭わない。そして、もし、少しでも一緒に出かけることができるなら、どこへだって行くよ、と楽しげについてきてくれる。
そんな彼らに「早く帰ってくるから待っていて」といわず、「向こうでしばらく元気でやってこい、そのうち迎えにいくからな」といって送り出す。
その時間をきちんと持つことができたなら、犬を飼う人間としては本当に幸せ者だとと思う。
もちろん送ってやった後、これまでに一緒に歩いた道やいつもゴロリと寝ている定位置にその姿がない風景は、大きな悲しみを生むだろう。
でも、それでも、犬たちと過ごした日々は幸せしかないと僕は思う。

4歳のとき、はじめて仔犬を抱いたことを思い出す。
グレーと茶色が混じった少し気が強いその仔犬は、我が家に来ることが決まり、なぜか兄から「ボビー・ブルックス」という洒落たな名前をもらった。
家の者には優しいけれど、外の人や犬には妙に厳しいボビーは逞しい身体を持っていたけれど、わずか10歳足らずで死んだ。これは僕たちの無知から来るもので、フィラリアをこじらせてしまった結果だった。
その頃の僕は動物を飼うのに夢中で、ハムスター、鳩、セキセイインコ、オカメインコなど、様々な動物が身近にいた。動物を飼えば飼う程、当然のこととして死が近くなる。ボビーが死んだのは小学校の高学年で、それまでに実に多くの死を経験していたけれど、やはり犬という動物が突然、目の前で死に、冷たくなっていくことは僕にはとても大きなことだった。

ボビーが死んだのは熱い夏の昼間で、夕方を待って兄と二人で埋葬するための穴を掘り始めた。15kgほどの大きな犬だったので、大きく深い穴が必要でなかなか苦労した。
結局、夜を明かして穴を堀り、ボビーを埋めた。穴を掘り終えた明け方の空は青く、妙に透明だったことを今でもときおり思い起こしたりする。
そして、2代目の犬はラナで、ボビーが死ぬ1年ぐらい前に野良犬としてやってきた。半ば強引に僕が連れてきたものだから、世話は僕がやることになった。でも、僕はやがて高校を卒業し、ラナを置いて家を離れた。そのとき、僕は果たしてラナに何と声をかけただろうか。「必ず迎えにくるから」どころか、きっと何も言わずに家を出たのだろうと記憶している。
言い訳になるけれど、僕はまだ若く自分のことで頭がいっぱいだった。
そして、大学を出て、東京で就職して、確か3年後にラナは逝った。逝く半年前だったか正月に帰省した際に見たラナはひどく年老いて、いつもの散歩コースをすべて歩くことはできず、ときおりへたりこんだ。僕はそんなラナに向かって35mmのポジフィルムを使って何枚も何枚も写真を撮った。
本格的に写真をはじめたばかり写真を撮ることが何なのかもよくわからず、それでも、ラナの写真を残しておきたいと思った。
ラナの顔を見たのは結局それが最後になってしまった。

その後、ラナが逝った直後に迷い込んできたのがランだった。
結局、僕がランに会ったのは、おそらく5、6回だろうか。それでも、何となく実家にやってきた三代目の犬ということで親近感を覚えていた。

ランは病室で見慣れた獣医の手にもたれた注射器を見て、何と思っただろうか。
母親はその最期の処置をどうしても見ることができす、ドアの向こうで待っていたという。
苦しさの中で、ランの眼には自分から去っていく飼い主に思えたのだろうか。
母はやっぱり、「少しだけ待っていてね。今すぐに来るから」と犬を飼う人であれば、何万回も言う言葉を投げかけたのだろうか。

なぜか、最期の瞬間のことをよく考える。よくどころか、毎日かもしれない。
それは決してネガティブな想像ではない。
今、生きている不思議から始まっている。
こうして、今、確かに自分は生きている。
生きているという視点で世界を見ている。見ること。それは僕にとっては生きていることに等しい。
だから、逝くことは見えなくなることだ。
生きている瞬間の最期、逝く瞬間の狭間、何か見えるのだろうか。どのように見えるのだろうか。
かすむのだろうか。色がにじむのだろうか。それとも澄み渡るのだろうか。
想像はいつもめぐるだけだ。
生きているという不思議が解決されることもなく、だからといって死が腑に落ちるものでもない。
ただ、その瞬間がやがて僕にも訪れるということ。
それはいつも理解し、ときどき愕然となる。
怖くないかと言えば、怖いだろう。
でも、最期の瞬間の風景を見たとき、生きていることの不思議が僕のなかで解凍するような気もしている。

昨年末に帰省した時に撮ったランの動画が携帯の中に入っていた。
ランはささみのおやつをのんびりを食べ、それを見ている僕は「ランはゆっくる食べるねんなあ」と関西弁でつぶやいていた。
美味しいそうにおやつをほおばるその動画をさきほど改めて見直し、ランが赤い首輪をしていたということを初めて知った。
母は赤い首輪をどうしたろうか。これはランのだからと付けたまま、見送ったのだろうか。それとも、思い出にと外して手元に残したのだろうか。そして、僕はさくらが逝ったとき、さくらをどのように送り、さくらの首輪や胴輪や器なんかをどうするのだろうか。
死はいつだって大きく、それを前にするとたわいもないこと、どうでもいいことばかりが頭を占める。
この文章をつづっている僕の足下では、さくらが真っ黒い身体を横たわらせ、すうすうと寝息をかいている。伝わってくるぬくもりと熱。今日はそれがひとつ、僕の中で消えてしまった。

つい先日も親戚の犬が亡くなったばかりだった。
まだ12歳で、急死に近かったのでやりきれない思いがした。
アメリカの童話では、犬は逝くと天国へと渡る虹のふもとで飼い主のことを待っているというものがあるという。
信仰を持たない僕は天国など信じていない。もちろん、地獄も。
でも、なぜか、この童話は大好きだったりする。きっと、天国とか地獄などはどうでもよくって、あの柔らかな毛並みに触れ、濡れた鼻が頬にあたるその幸福を知る人の夢なんだろうと感じるからだ。

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下北への旅

下北への短い旅。昨日は、仏ヶ浦で行われた魂にまつわる祭りを見て、今日は早朝から恐山を歩いた。
あいにくの霧雨。でも宇曽利湖を覆う雲はどこか明るい。
早朝の恐山は何度か経験があるけれど、今日はどこか不思議な気配が立ち込めていた。
昨日に終わった例大祭の熱がほんのわずかに残っているといえばいいだろうか。
静けさのなかにも人の気配を感じる。

賽の河原への道を歩き始めると、濃厚な硫黄臭が身体にまとわりついてくる。
ごろごろと転がる奇態な岩の割れ目からたちのぼるそれはまさに大地の熱そのもので、妙な艶かしさを持って肌に触れてくる。
道の両脇にころがる石の脇には無数の供物や並び、風車がときおりカラカラと回る。
色とりどりの包装をまとったお菓子などの供物も風車も明け方まで降った雨に濡れてしまっているが、荒涼とした風景のなかで色彩の鮮やかさは増しているようにも見える。
硫黄ガスにより草木の生えない恐山では、こうした供物や周囲の山の緑が色彩を作り出す。

この道を行くと濃い硫黄ガスにやられるのか、いつも少しだけぼうっと頭がかすむ。今日は気圧が低いせいか、いつもよりそれがひどい。
半ば心地よくふらふらと宇曽利湖のほとりまで歩いて行く。湖面には柔らかな波がたち、風がときおり強く吹く。白い砂が広がる浜には、ここにも数多くの花と供物が並んでいる。
冷たい夜の雨は容赦なくそれらにも降り続けたのだろう。食べ物も花もみな痛み、朽ちつつある。
逝った人の名が記された棒っきれの群れも濡れながら浜に並んでいる。まったく見知らぬ人の名をいくつか口づさんでみる。性別以外の想像は拒まれるけれど、いつか、どこかで出逢ってもいるような不思議な気持ちにもなる。
これらの人は皆、いなくなってしまった。そのことがわかるようでわからない。
霧雨はときおり、雨粒に変わり、また止んだりを繰り返している。

昨日、この賽の河原を訪れ、湖面に花を手向け、食べ物を並べ、その名を呼び、火を灯した人たち。
去来したのはどういう思いだったのだろうか。
逝った人の親しき名を呼び、その魂がこの青い湖面をすべっていくことを願ったのだろうか。
それとも、湖面の先で漂う魂を呼び、迎え入れたのだろうか。
砂に立ち、亡き人の名を呼んだ人たちの思いはきっと、体温にも似た熱となって、この浜を覆ったに違いない。
でも、こうして、夜を越して朝を迎えると、すべての熱が失われ、ただただ静寂の湖面だけが横たわる。

忘却と言うのだろうか。
それとも漂白と呼ぶのだろうか。

人々が抱く熱の数々が、山から湧き出した雨雲から降る驟雨や、湖面を渡る冷たい風に吹かれ、冷やされ、薄められ、鎮められていく。
人々が持ち込んだ思いの陰影は失われ、かわりに明るさが増し、白く軽くなっていく。
こうなることで、この地に立った人は明日のことを強く思えるようになるのだろうか。
だとしたら、この地が持つ力は本当に美しいと思う。

青森とは、そういう力を持つ土地なのかもしれない。
たとえば、昨日訪れた仏ヶ浦はどうだっただろうか。
最果ての海と奇岩が連なる浜で、老婆たちは眼を瞑り、大きな数珠を皆で回しながら、魂を呼んでいた。
この地では、魂は海の向こうを渡ってくるという。
海がそのまま賽の河原でもあるらしい。
青白い凝灰岩でできている仏ヶ浦の奇岩たちは、波の侵蝕によりこぼれた砂をあたり一面に広げていた。
その白い砂浜の上で老婆たちは白い着物を羽織った。
魂を呼ぶ言葉は繰り返し唱えられたが、僕はとうとう見ることができなかった。
そこで、ふと僕が、「この岩たちに魂が宿るのか」と問うと一人の老婆が、「当たり前だ。魂が宿らなければ、それはただの石だろう。それは墓でも同じだろうが。魂がなければ墓も石でしかない」と土地の言葉できっぱりと返してきた。
石には魂が宿り、それによってただの石ではなくなる。墓にも魂が入ることで初めて墓になる。
そんな当たり前のことも僕は知らなかった。
「そろそろ海が荒れてくる時間だ」と言って、老婆たちは慌てて片付けると、若衆が用意してくれた船に乗って帰っていった。船で5分程度いけば自分たちが暮らす集落に着くと教えられたが、まだそこに行ったことがない僕にとっては、海の向こうへと消えていくことと同じだった。
魂の行方も見えないし、老婆たちの向かう先も知らない。
奇岩連なる浜に一人残る僕に見えているのは、白い砂と海だけだった。

恐山に登ってきた人は、この浜に抱いてきた熱を残し、再び、もと来た道をたどっておりていった。
帰路によぎったものは何だっただろうか。大切な何かを置き去ることで得たものはあっただろうか。

恐山でつむがれてきた営みは、僕の印象の中では青く、そして白い。
宇曽利湖の青さと浜の白。硫黄にやられた頭に残るのはいつも同じ色彩だ。

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命日の日に

北海道から帰ってきた。
函館の夜の海は、風が強くかなりの荒れ模様だったけれど、海峡を渡る船は大きく揺れることもなく、いつもと同じ4時間ほどで青森港に着いた。
弁造さんの一周忌。命日の23日に営まれた法要は、和やかな雰囲気のまま終わった。

お斎の席では、皆、それぞれのなかにある弁造さんとの思い出を話し、笑ったり、懐かしがったりした。
今年の北海道は、昨年に引き続き大雪で、まだ地表の半分ぐらいは、少し薄汚れてしまった雪に覆われていた。
岩手ではほとんど消えてしまった雪に再会したさくらは喜んで駆け、わざと転がったりして遊んでいた。
空は、渡り鳥のものだった。編隊を組んで北の空へと渡っていくハクチョウやガンたちをたくさん見送った。互いに鳴き交わしながら、蒼い空の彼方にとけていく姿は、昨年、弁造さんが荼毘に付された翌日に見た空の景色と少しも変わることはなかった。

弁造さんが逝ってからの一年。いつも頭の片隅で弁造さんのことを考えてきた。
それは、弁造さんを追いかけてきた日々と同じように「弁造さんの人生」について考える時間ではあったのだけれど、それに加えて「いなくなったこと」についてもよく考えた。
身近な人が死んで、目の前から消えてしまう。誰もが間違いなく経験することだろうけれど、弁造さんの死は、僕にとって引っかかり続けた。
死んでいなくなる。遺った者のなかに記憶が残る。でも、記憶はどこまでも記憶であって、本人の生命のリアリティはもう少し別なものではないか。いなくなって、このリアリティーもまた「いなくなる」のだろうか。
もちろん、答えが出るわけはなく、ぐるぐると僕は問いのまわりを回り続けた。

そして、一周忌を迎えた。
正直、大きな感慨を得ることはなかった。体調を少し崩し気味だったからかもしれないが、一年という時間が本当にあっという間だったことぐらいしか感じなかった。「いなくなった」ことについては、大きくもならず小さくもならず、ただ僕の前に横たわっていた。
いつもと同じようにたくさんフィルムを持ち込んだけれど、撮ったのはわずか10数本だった。
もちろん、弁造さんが遺した森も歩いた。新しい発見があるはずだと、背伸びをしたりしゃがんだり、目線も変えてみた。でも、浅い春のなかにある森は、どこかよそよそしく、僕は探しものを見つけることはできなかった。

なぜだろう。
帰路はずっとそのことばかりを考えていた。
なぜ、何も感じず、何も見つけることができなかったのだろうか。
そういうものなのだろうか。
今回の旅で一番感じたかったものはなんだろうかと思い返した。
それはやはり、「井上弁造」というリアリティーだった。井上弁造という人生にはひとまず区切りがついたが、それは弁造さん個人の話であって、僕のなかでは終わるものではなかった。僕にはまだまだ知らない弁造さんの人生があり、その部分への関心は、弁造さんの生き死にとは関係がないものだった。一周忌法要は、僕にそのことを改めて気づかせてくれたのかもしれない。

弁造さんがいかに生きたか。
そしてその生き方を知ることで、僕のなかに何が残るのか。そして、それを写真にできるのか。
弁造さんが生きた土地を後にして、早く帰ろうと思った。
早く帰って、弁造さんの遺したものから弁造さんへの旅を先に進めようと思った。

15年間通い詰めた土地だけれど、そんな風に感じたのは、初めてのことだった。

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水仙月の四日あるいは雪狼のあしあと

来月4月11日より、盛岡市の啄木賢治青春館にて、ミニコミ誌「てくり」のイベントに絡めて写真展を行うことになった。
タイトルは「水仙月の四日あるいは雪狼のあしあと」というもので、賢治童話のひとつ「水仙月の四日」がモチーフとなっている。
ただ、展示作品の中身としては、こういう言い方が適切かどうかわからにけれど、いわゆる賢治独自のオノマトペやその陰影の深い心象風景を写真的に表現したものではない。
わかりやすくいうと、僕が30年も前にはじめて水仙月の四日を読み、雪が作り出す世界に魅了され、その後、10数年して岩手に移住し、本当に雪の世界を知り、雪とは?ということを考えてきた過程としての作品群だ。
「水仙月の四日」はあくまで写真群の根底に流れるリズムといえばいいだろうか。
早いもので岩手に暮らして15年目となる。その間、当たり前だけれど、15回の冬がやってきた。
そして感じるのは、冬がくるたびに、僕のなかで雪はいよいよ白さを増しているということだ。でも、漂白とは違う。色を抜きさっての白ではなく、厚みを持った白。雪の白は堆積し、深々と折り重なっていくことで白の増していく。そんな世界のなかに存在するのは、そこに在る者たちの温度だ。人も動物もすべてのものたちの息吹が雪のなかでまるで小さな炎のような温度を発している。
それは、春の吹雪で遭難し、赤いけっとにくるまって眠る少年の息吹そのものだと冬を迎え、降り積もる雪を見るたびに思う。

雪は僕のなかで次第に大きなテーマとなってきている。今回の展示は、そのとっかかりといえようか。
春を迎えようとする盛岡で、雪の手触りを伝えられるとうれしいのだけれど。

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弁造さんのこと12.20

大阪での個展が終わり、再び弁造さんの撮影を始めようとしている。
今、向かおうとしているのは、僕の知らない弁造さんだ。

先月、個展会場の大阪から岩手への帰路、東京に立寄り、キュレーターの太田菜穂子さんを訪ねた。
持参したのは、2年前に行った弁造さんの個展、「Drawing」の際に作った約50点からなるポートフォリオ。
これに投げかけられた太田さんの言葉は、僕の中でぼんやりとしていたことを明確にしつつ、新たな発見をもたらせてくれた。
そして、太田さんからひとつの大きな問いかけをいただいた。
それは、「1980年でもない、2000年でもない。2012年という時代に弁造さんを撮り、表現する意味はどこにあるの?」というものだった。

「今」という時代を忘れないこと。それは写真を撮るうえで最も大切にしていきたことのひとつだ。
でも、果たしてこのことが僕がこれまで撮ってきた写真に写っていたのかどうか。
写真は、過去でも未来でもなく「今」しか写せないものだから、という写真の大原則の上にあぐらをかいていなかったか。
本当に今の時代に必要なことを自らの眼で見定め、これまでの写真に足りなかったことを追求しようとしたのか。
何ひとつできていない。太田さんの言葉で気づいたのはそういうことだった。

気付くのが遅すぎたのかもしれない。
弁造さんはすでにいなくなり、生きたその姿を撮ることはできなくなってしまっている。
では、どうすればいいのか。
この一ヶ月、ずっと考え続けてきたことだ。
弁造さんの写真を今の時代と、これからの時代への問いかけとするには何をすべきか。
それは未来の僕へ、弁造さんの写真をどう受け渡していくかということでもある。

そこで改めてその存在に気づいたのが、段ボール4箱分の弁造さんの遺品だ。
メモ、スケッチ、その他、記録。弁造さんの家を整理した際に持ってきたものだ。
弁造さんの持ち物のすべてを持ち帰ることはできないから、そのかわりにと、弁造さんの肉筆が記されたものを中心にかき集めてきた。

今年の5月からそれらは僕の仕事場の片隅で静かに呼吸するようにしてずっと在ったけれど、どう扱っていいのかわからず、ある意味放置してきた。
太田さんに会って以降、いろいろと考えれば考えるほど、これらの遺品の存在が気になってきたのだ。
そして、少しずつ、遺品の中をのぞきはじめた。

見えてきたのは僕の知らない弁造さんだ。
僕が知っているには78歳から92歳までの弁造さんで、それ以前は弁造さんから思い出話を聞いた限りでしかない。
そもそも78歳からだって、知っていると思うのは間違いだろう。年に数回、訪ねてきただけ。結局は断片しか知らない。
僕の中の弁造さんとはそういうものなのだ。
遺品はそういうことを気づかせてくれるともに、僕の知らなかった弁造さんの姿を不思議なリアリティーを持って語り始めたのだ。

ある封筒からはまだ30代とおぼしき弁造さんの免許証用の写真が現れ、また別なところからは昭和48年の大塚から五反田までの一ヶ月の定期券が現れ、どのような目的があったのかわかりかねる新聞の切り抜きの間からは、震える字で綴られた買い物のメモが大量にはさまっているといった具合。いずれも弁造さんの体温を感じるようなものばかりだが、だからといって、すべてが腑に落ちるものでもない。

なぜ、弁造さんを撮ってきたか。何のために弁造さんを撮ってきたか。
正直に言うと、それは、僕のなかでずっと螺旋を描くようにグルグルと回り続けてきた。14年間。迷い続けてきた。
その場しのぎで理由をでっち上げ、いままでやってきた。撮り続けてきた一番の理由は、なぜかやめられなかったから。
結局はそういうことだ。
でも、遺品を前にして、少しだけ確かな理由が見えてきたような気がした。
弁造さんを撮らなくてはならない理由。

それは、写真を通じて、「人間」に触れたかったのだ。
ヒューマニズムとかではなく、シャッターを押すことで、手にしたカメラと弁造さんという「人間」の距離が縮まっていくような気がしていた。
距離が縮まっていくことで、その先に具体的に見たいものがあったのではないのかもしれない。一回、また一回とシャッターを押す、そのプロセスのなかかで、一歩、一歩人間に近づいていける。おそらくそれをずっと求めていたのだろう。

では、弁造さんに近づこうとした14年間で、それは距離は十分に詰めることができたか。
まだ、足りない。欠けているものがたくさんある。
それは弁造さんを撮るうえで考えてきた「生きることの謎解き」の答えが出ていないことではなく、まだ、弁造さんという人間への距離が詰め切れてない。単純にそういうことなんだろう。

弁造さんの遺品は、再び、僕のこのチャンスを与えてくれようとしているのだろうか。
僕たちを司る時間というものは一方通行だ。現在は瞬時に過去となり、ひたすらに膨大な過去を生み出して行く。
勢いよく倒れながら進むドミノのようなもので、後戻りは決して許されない。
でも、僕の手の中にある弁造さんの遺品には、この時間が当てはまらない。
過去へ過去へと僕を連れていくのだ。

大塚と五反田とを結ぶ1ヶ月間の定期。昭和48年の3月1日から3月31日までの31日間。52歳だった弁造さんは、何を目的として北海道から海峡を渡り、東京で暮らしていたのだろう。絵を学ぶためだったろうか。それとも出稼ぎだったろうか。
そして、そのとき、弁造さんの心を占めていたものはなんだったのだろうか。

そう、僕はやっぱり弁造さんのことを本当に知らない。話を聞いた断片から想像はできてもやっぱり、知らない弁造さんばかりだ。
でも、間違いなく言えることは僕はそんな弁造さんのことを知りたいと思う。
免許証用の写真に写る僕の知らない弁造さんという人生に写真を撮ることを通じて近づきたいと思う。

太田さんと弁造さんのことをいろいろ話したとき、ふと、「弁造さんが突然逝ったこと、それはあなたに対するギフトじゃないかしら」と太田さんがつぶやいた。
ギフトかどうかはちょっとわからないけれど、こうして弁造さんが逝った後も、僕は弁造さんの写真を続けるチャンスを持ち続けることができている。それは本当に幸福のことだし、何ともいえない縁や不思議さを感じる。
人間の不思議さと、生きることの不可解さと、人生というどこにでもころがっている単純な出来事と…それを撮ることができれば、それは今、この時代に弁造さんを撮る意味になってくれるのだろうか。

まずはシャッターを押してみること。はじまりはそこしかない。

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知らない弁造さん 2012


大阪Nikonサロン展 本日より開催 11月14日まで

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彼の生活」country songsよりの大阪Nikonサロン展の設営が昨夜に終わった。
これは6月に銀座Nikonサロンで開催した展示の巡回展となる。予定では銀座だけで終了するはずだったが予想に反して好評だったこともあって、アンコール展のお話をいただいた。
大阪生まれではあるが、大阪での個展は今回が初めてのこととなる。
どういう方が、どういうかたちで「彼の生活」をとらえてくれるか、正直不安ではあるが、一方で楽しみにしている。

これまで東京を中心に少しずつ写真を発表してきたが、設営は僕の好きな時間のひとつだ。あらかじめ計画しておいた展示のレイアウトが少しづつかたちになっていく時間。それは、個として存在していた一枚一枚の写真が、隣り合う写真たちと結びついてひとつの物語となっていく瞬間でもある。
ときに饒舌となり、あるいは沈黙し、また、語り始める、ずらりと並んだ写真群は、一枚であったときに比べ、小説のように感情を持っていくように感じる。

僕の展示の場合、大切なのはレイアウトはもちろんのことだがスポットライトの存在も重要だ。
暗室で写真展用のプリント作成する際、常に意識しているのがタングステン球によるスポットライトの色味。この古くも美しいタングステンの光を浴びて、色味が冴え、深まり、印画紙のなかに写るディティールの立体感が増していく。それをイメージした色に調整し、濃度を考え、プリントを作っていく。
これは、モニターディスプレイでちょこちょこと指先を動かしてつくっていくデジタル暗室とはまったく違う世界だろう。
ディスプレイは発光するがプリントは外からの光を受け取る。
それは、フィルムに受光させることで成立する「写真」そのもの行為に通じている。
暗室で繰り返し、こうした作業を経ているからか、壁面への設営が終わり、蛍光灯を消し、スポットライトをつけた瞬間がとても好きだ。写真が壁面からうっすらと浮き立ち、写真としての強さを持ち始める。

今回も展示も銀座同様、Nikonサロンのベテランのスタッフの手によって美しく設営していただいた。
雫石の大切な友人であり尊敬すべき木工作家である「おりつめ木工」の和山忠吉さんに特別に作っていただいたスプルースの端正なフレームが寸分の狂いもなく一列に並ぶ光景は、まるでポジフィルムを光に透かしてみるように美しく思えた。
自分の写真だからどう、といいうことではなく、印画紙に写るもの、写真というものは本当にはかなく、それでいて強く、濃密で、そしてきれいだ。

大阪に暮らす皆様にとって、「彼」がどのよう存在となっていくのか。
僕は1週間、会場の片隅で見守らせてもらうことになる。
ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

大阪Nikonサロンへのアクセスはこちらをご覧ください。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/
http://www.nikon-image.com/support/showroom/osaka/#salon





弁造さんのところへ

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今、津軽海峡を行くフェリーのなかにいる。
弁造さんのところに向かうためだ。

From the dark roomtと名付けたこの場所に新しい言葉を記すのは本当に久しぶりのことだ。
6月末に東京での個展が終わり、その後はしばし仕事に忙殺され、本当に暑い夏のなかでカメラを持って右往左往しているうちに、もう10月になってしまっていた。
でも、一切の文章が書けないほど、忙しかったわけでもない。それなりにいろんな出来事があり、常に目の前にはやらねばならないことがあったけれど、それはこれまでと変わらない日々だったと思う。

書けなかった。簡単にいうとそういうことだった。
弁造さんのことを書こうと何度も思ったけれど、言葉がどうしても定まらなかった。
何より言葉が僕の中に止まってくれなかった。
そういう状態のまま、数ヶ月という時間が足早に過ぎて行った。

こうなる理由はなんだろうといつも考えていた。
4月の終わり、北海道で桜が咲く数日前に弁造さんが突然逝ってしまい、僕のなかで弁造さんは立ち止まってしまった。
僕の時間は何ら変わることなく進んでいくけれど、弁造さんはあの日のまま、ずっと立ち尽くしているように思えた。

弁造さんと出会って14年間の日々は、弁造さんのことを延々と想像し続ける日々だった。
日常で出会う出来事を前に、弁造さんであればどう思うだろう。弁造さんはこのことをどう考えるだろう。
今、弁造さんの庭はどういう季節の色だろうか。弁造さんは今、どういう絵を描いているだろうか。
とりとめのない問いをひたすら繰り返した。
でも、僕のなかで繰り返されるこうした問いは、弁造さんに会うといつもどこかへ飛んでしまっていた。
何度聞いたのか、もうよくわからないような弁造さんの話にひたすら耳を傾け、笑ったり、悲しんだり、ときには言い争ったり。弁造さんとの数日はいつもそんな調子で過ぎていき、僕は帰路につく。それを一年に数回。そして何年も何年も。

ああ、生きていたからなんだな、と今、気づこうとしている。
すべては、弁造さんが生きていて、その存在が確かだったからかつては問いを繰り返したり、できたんだと。
ようやくそういうことに気づこうとしている。

弁造さんがいなくなり、僕の弁造さんへの問いは、宙に浮き、そして生まれにくくなってしまったようだ。
弁造さんへの僕の問いなんて、そもそも答えを求めるようなものでもなかったろうに。でも、自由に問うことができにくくなってしまった。
おそらく、弁造さんが立ち止まってしまったからだろう。僕のなかで。
進む時間のなかにいる者と、止まってしまった時間のなかにいる者。
その差は埋められないものかと、ずっとずっと考えたまま、ただうろうろとする夏だった。

それでもようやく秋が来て、僕の家の庭にあるサトウカエデが紅く染まりはじめた。
このサトウカエデは弁造さんが最も大切にする木で、10年ほど前に弁造さんからもらったものだった。
秋になったら、弁造さんの場所に行こう。弁造さんがいなくなった後、そう心に決めていた時期がやってきていたのだ。

旅の準備をはじめつつ、僕はずっと思い止まっていたことをやろうと思った。
本棚の脇においてある木箱を開けることだった。
そこには弁造さんの遺骨が入っているのだが、最後に開いてみたのはおそらく5月の終わり、岩手でも桜が散ってしまったあとだったように思う。
次に弁造さんのところに行くときには、遺骨を見てからいこう。それは僕の中で自然と決まっていたことだった。

棚から木箱を下ろし、包みを解いた。ずっと弁造さんを撮り続けてきたローライフレックスにはすでにフィルムも入っている。
静かに蓋を開くと最後に見たときと同じかたちの骨があった。
でも、ふと記憶にあるかたちとどこか違うような気がして、指を伸ばしてみた。すると、どうしたことだろう。
まるで砂山が崩れるようにパラパラと骨が崩れはじめたのだ。

弁造さんの遺骨をもらうにあたり、僕が選んだのは頭骨の一部だった。それは弁造さんの弟の正治さんの勧めでもあった。最初は冗談で、「おしゃべりな兄貴だったから口の骨がいいんじゃないか」と言ったが結局、「一番しっかりしている場所がいいんじゃないか。頭のいい兄貴だったしな」と正治さんは真面目な顔をして火葬後であってもしっかりとかたちを留めている頭骨を指差した。僕はその言葉にしたがい、しっかりと厚みのある頭骨を箸でつまんで木箱に収めた。

でも、こうしてわずか数ヶ月のなかで骨は、もろくも崩れようとしていたのだ。
そうか、何も止まっていないんだな。少しうろたえながらもそう思った。
弁造さんと最後にどういう言葉を交わしたか。弁造さんと初めて会ったとき、どのような話をしたか。
そんなことがまるで漂白されるかのように薄らいでいく。悔しいようなもどかしいような。それでも着実に、記憶から熱のようなものが失われていく。そんな僕の日々と弁造さんの遺骨は同じ時間を刻んでいたのだろうか。
崩れようとする骨は、すべての存在に働く時の作用を教えようとしたのだろうか。

僕は、遺骨の木箱を閉じ、今度は印画紙の箱を開けた。そこには、弁造さんが逝ったときの約50本のフィルムからとったコンタクトシートが入っていた。
久しぶりに見るコンタクトだったが、驚くことに熱はそのまま存在していた。
そこには逝ったばかりの弁造さんがしっかりと存在し、あの春を迎えようとする北海道の空気のふくらみも、火葬の日の抜けるような青空もすべてが揺らぐことなくそこにあった。
弁造さんの頬の冷たさ、熱くくすぶる骨。すべてがあの日のままだった。

写真は、強烈な力で僕たちを過去に連れて行く。
過去にいたはず、過去にあったはず、何よりも過去の自分と力づくで向き合わせる。
写真は、僕たちに一体何を伝えようとしているのだろうか。
写真の中にいる弁造さんは何を伝えようとしているのだろう。

フェリーが少し揺れ始めた。
陸奥湾から外海に出たのかもしれない。
明日から数日間、僕はどういう弁造さんに出会うことができるのだろうか。

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