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命日の日に

北海道から帰ってきた。
函館の夜の海は、風が強くかなりの荒れ模様だったけれど、海峡を渡る船は大きく揺れることもなく、いつもと同じ4時間ほどで青森港に着いた。
弁造さんの一周忌。命日の23日に営まれた法要は、和やかな雰囲気のまま終わった。

お斎の席では、皆、それぞれのなかにある弁造さんとの思い出を話し、笑ったり、懐かしがったりした。
今年の北海道は、昨年に引き続き大雪で、まだ地表の半分ぐらいは、少し薄汚れてしまった雪に覆われていた。
岩手ではほとんど消えてしまった雪に再会したさくらは喜んで駆け、わざと転がったりして遊んでいた。
空は、渡り鳥のものだった。編隊を組んで北の空へと渡っていくハクチョウやガンたちをたくさん見送った。互いに鳴き交わしながら、蒼い空の彼方にとけていく姿は、昨年、弁造さんが荼毘に付された翌日に見た空の景色と少しも変わることはなかった。

弁造さんが逝ってからの一年。いつも頭の片隅で弁造さんのことを考えてきた。
それは、弁造さんを追いかけてきた日々と同じように「弁造さんの人生」について考える時間ではあったのだけれど、それに加えて「いなくなったこと」についてもよく考えた。
身近な人が死んで、目の前から消えてしまう。誰もが間違いなく経験することだろうけれど、弁造さんの死は、僕にとって引っかかり続けた。
死んでいなくなる。遺った者のなかに記憶が残る。でも、記憶はどこまでも記憶であって、本人の生命のリアリティはもう少し別なものではないか。いなくなって、このリアリティーもまた「いなくなる」のだろうか。
もちろん、答えが出るわけはなく、ぐるぐると僕は問いのまわりを回り続けた。

そして、一周忌を迎えた。
正直、大きな感慨を得ることはなかった。体調を少し崩し気味だったからかもしれないが、一年という時間が本当にあっという間だったことぐらいしか感じなかった。「いなくなった」ことについては、大きくもならず小さくもならず、ただ僕の前に横たわっていた。
いつもと同じようにたくさんフィルムを持ち込んだけれど、撮ったのはわずか10数本だった。
もちろん、弁造さんが遺した森も歩いた。新しい発見があるはずだと、背伸びをしたりしゃがんだり、目線も変えてみた。でも、浅い春のなかにある森は、どこかよそよそしく、僕は探しものを見つけることはできなかった。

なぜだろう。
帰路はずっとそのことばかりを考えていた。
なぜ、何も感じず、何も見つけることができなかったのだろうか。
そういうものなのだろうか。
今回の旅で一番感じたかったものはなんだろうかと思い返した。
それはやはり、「井上弁造」というリアリティーだった。井上弁造という人生にはひとまず区切りがついたが、それは弁造さん個人の話であって、僕のなかでは終わるものではなかった。僕にはまだまだ知らない弁造さんの人生があり、その部分への関心は、弁造さんの生き死にとは関係がないものだった。一周忌法要は、僕にそのことを改めて気づかせてくれたのかもしれない。

弁造さんがいかに生きたか。
そしてその生き方を知ることで、僕のなかに何が残るのか。そして、それを写真にできるのか。
弁造さんが生きた土地を後にして、早く帰ろうと思った。
早く帰って、弁造さんの遺したものから弁造さんへの旅を先に進めようと思った。

15年間通い詰めた土地だけれど、そんな風に感じたのは、初めてのことだった。

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