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弁造さんのところへ

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今、津軽海峡を行くフェリーのなかにいる。
弁造さんのところに向かうためだ。

From the dark roomtと名付けたこの場所に新しい言葉を記すのは本当に久しぶりのことだ。
6月末に東京での個展が終わり、その後はしばし仕事に忙殺され、本当に暑い夏のなかでカメラを持って右往左往しているうちに、もう10月になってしまっていた。
でも、一切の文章が書けないほど、忙しかったわけでもない。それなりにいろんな出来事があり、常に目の前にはやらねばならないことがあったけれど、それはこれまでと変わらない日々だったと思う。

書けなかった。簡単にいうとそういうことだった。
弁造さんのことを書こうと何度も思ったけれど、言葉がどうしても定まらなかった。
何より言葉が僕の中に止まってくれなかった。
そういう状態のまま、数ヶ月という時間が足早に過ぎて行った。

こうなる理由はなんだろうといつも考えていた。
4月の終わり、北海道で桜が咲く数日前に弁造さんが突然逝ってしまい、僕のなかで弁造さんは立ち止まってしまった。
僕の時間は何ら変わることなく進んでいくけれど、弁造さんはあの日のまま、ずっと立ち尽くしているように思えた。

弁造さんと出会って14年間の日々は、弁造さんのことを延々と想像し続ける日々だった。
日常で出会う出来事を前に、弁造さんであればどう思うだろう。弁造さんはこのことをどう考えるだろう。
今、弁造さんの庭はどういう季節の色だろうか。弁造さんは今、どういう絵を描いているだろうか。
とりとめのない問いをひたすら繰り返した。
でも、僕のなかで繰り返されるこうした問いは、弁造さんに会うといつもどこかへ飛んでしまっていた。
何度聞いたのか、もうよくわからないような弁造さんの話にひたすら耳を傾け、笑ったり、悲しんだり、ときには言い争ったり。弁造さんとの数日はいつもそんな調子で過ぎていき、僕は帰路につく。それを一年に数回。そして何年も何年も。

ああ、生きていたからなんだな、と今、気づこうとしている。
すべては、弁造さんが生きていて、その存在が確かだったからかつては問いを繰り返したり、できたんだと。
ようやくそういうことに気づこうとしている。

弁造さんがいなくなり、僕の弁造さんへの問いは、宙に浮き、そして生まれにくくなってしまったようだ。
弁造さんへの僕の問いなんて、そもそも答えを求めるようなものでもなかったろうに。でも、自由に問うことができにくくなってしまった。
おそらく、弁造さんが立ち止まってしまったからだろう。僕のなかで。
進む時間のなかにいる者と、止まってしまった時間のなかにいる者。
その差は埋められないものかと、ずっとずっと考えたまま、ただうろうろとする夏だった。

それでもようやく秋が来て、僕の家の庭にあるサトウカエデが紅く染まりはじめた。
このサトウカエデは弁造さんが最も大切にする木で、10年ほど前に弁造さんからもらったものだった。
秋になったら、弁造さんの場所に行こう。弁造さんがいなくなった後、そう心に決めていた時期がやってきていたのだ。

旅の準備をはじめつつ、僕はずっと思い止まっていたことをやろうと思った。
本棚の脇においてある木箱を開けることだった。
そこには弁造さんの遺骨が入っているのだが、最後に開いてみたのはおそらく5月の終わり、岩手でも桜が散ってしまったあとだったように思う。
次に弁造さんのところに行くときには、遺骨を見てからいこう。それは僕の中で自然と決まっていたことだった。

棚から木箱を下ろし、包みを解いた。ずっと弁造さんを撮り続けてきたローライフレックスにはすでにフィルムも入っている。
静かに蓋を開くと最後に見たときと同じかたちの骨があった。
でも、ふと記憶にあるかたちとどこか違うような気がして、指を伸ばしてみた。すると、どうしたことだろう。
まるで砂山が崩れるようにパラパラと骨が崩れはじめたのだ。

弁造さんの遺骨をもらうにあたり、僕が選んだのは頭骨の一部だった。それは弁造さんの弟の正治さんの勧めでもあった。最初は冗談で、「おしゃべりな兄貴だったから口の骨がいいんじゃないか」と言ったが結局、「一番しっかりしている場所がいいんじゃないか。頭のいい兄貴だったしな」と正治さんは真面目な顔をして火葬後であってもしっかりとかたちを留めている頭骨を指差した。僕はその言葉にしたがい、しっかりと厚みのある頭骨を箸でつまんで木箱に収めた。

でも、こうしてわずか数ヶ月のなかで骨は、もろくも崩れようとしていたのだ。
そうか、何も止まっていないんだな。少しうろたえながらもそう思った。
弁造さんと最後にどういう言葉を交わしたか。弁造さんと初めて会ったとき、どのような話をしたか。
そんなことがまるで漂白されるかのように薄らいでいく。悔しいようなもどかしいような。それでも着実に、記憶から熱のようなものが失われていく。そんな僕の日々と弁造さんの遺骨は同じ時間を刻んでいたのだろうか。
崩れようとする骨は、すべての存在に働く時の作用を教えようとしたのだろうか。

僕は、遺骨の木箱を閉じ、今度は印画紙の箱を開けた。そこには、弁造さんが逝ったときの約50本のフィルムからとったコンタクトシートが入っていた。
久しぶりに見るコンタクトだったが、驚くことに熱はそのまま存在していた。
そこには逝ったばかりの弁造さんがしっかりと存在し、あの春を迎えようとする北海道の空気のふくらみも、火葬の日の抜けるような青空もすべてが揺らぐことなくそこにあった。
弁造さんの頬の冷たさ、熱くくすぶる骨。すべてがあの日のままだった。

写真は、強烈な力で僕たちを過去に連れて行く。
過去にいたはず、過去にあったはず、何よりも過去の自分と力づくで向き合わせる。
写真は、僕たちに一体何を伝えようとしているのだろうか。
写真の中にいる弁造さんは何を伝えようとしているのだろう。

フェリーが少し揺れ始めた。
陸奥湾から外海に出たのかもしれない。
明日から数日間、僕はどういう弁造さんに出会うことができるのだろうか。

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