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「彼の生活 Country songsより」始まりました

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昨日より銀座Nikonサロンにて、「彼の生活 country songsより」が始まりました。
7月3日まで2週間の会期となっております。
お時間の許す限り、ゆっくりとご覧いただけると幸いです。

弁造さんのこと 6.16

ふとしたときに弁造さんのことを思い起こす。
車に乗っていて、信号で止まったとき、さくらと散歩に出かけて、朝露で濡れ光る草原の向こうから風が吹いてきたとき、最近たまに飲む紅茶のペットボトルのキャップをねじって開けたとき、夜中、仕事を終えて寝ようとして照明を消し、闇の気配が濃厚になったとき、テレビを見ていて面白い素人さんが出てきて笑ったあとにCMが流れたとき、翌日の撮影の準備を終えてカメラバックを出口の前に持っていったとき、撮影から帰ってきて扉を開けたらさくらが鼻を鳴らして飛び出してきて、その艶のある毛に顔を埋めたとき、本当に何気ない日常が次々と現れるなかで、ふいに生々しく弁造さんのことを思い起こす。

でも、在りし日の姿を思い起こすのではなく、逝ってしまったこと。もういないこと。今、この世界に生きている何十億もの人、その一人一人訪ねても弁造さんを決して見つけることができないこと。
そのことをしみじみと、そして、ありありと思い起こす。

それは悲しいとはまた別の心象風景だ。もちろん、寂しく悔しく哀しいけれど、そういう、温度のようなものを秘めているものではなく、漂白された感情と呼べばいいだろうか。乾いて澄んだ風が僕の中にある弁造さんの記憶の脇をすり抜けていくような。上手く言えないけれど、そんな感じがする。
こうした感覚がいつか温度を持ち、どこかで懐かしさやぬくもりを与えてくれるものになるのだろうか。
「弁造さんがいなくなってしまった」。今は、それ以上でもなく、それ以下でもないけれど、いつか何か違うものに生まれ変わるのだろうか。

それまで、少しづつ弁造さんのことを書いていこうと思う。

弁造さんは、僕が訪ねると、いつもAさんのことを自慢げに話した。
Aさんは北大の教授を務める考古学者で、弁造さんの友人の一人だった。
弁造さんが大切にしていたもののひとつは学問だった。弁造さんは最終学歴は、尋常小学校の高等科だ。いわゆるインテリとは程遠い学歴だが、弁造さんは学ぶことに対していつも真摯だった。
若い頃は絵画を学ぶために名門の川端画学校の門を叩き、弁造さんが言うところの「アカデミズム」を吸収しながら絵を描き続けた。この川端画学校には、正式に入学したのではなく、研究生的な扱いで通学が許されたという。

また、生涯の仕事とでもいうべき農業については、常に先端の農業を意識していた。
だからといって、弁造さんがいわゆるハイテク農業的なスタイルを実践することはなく、貫いたのは、言ってみれば原点回帰的な農業だった。絵についてもそうだ。画学校で学んだことは多かったが、結局は、アカデミズムを脱却することを常に念頭に置いていた。

それでも弁造さんは、人間が学問によって知恵を深めるという行為には、常に敬意を持ち続けていた。
弁造さんがAさんのことを尊敬している理由のひとつは、Aさんが智を追求する人間だったからでもあるのだが、また別の理由でも、Aさんのことが好きになったようだった。
「Aさんはな、北大を引退したら、畑を耕して、ヤギを飼ってチーズを作るっていっとるんじゃ。あのヤギだぞ。あんな我がままな動物を可愛いって言うんだから、Aさんはまったくの変わり者だ。北大の教授にもなって、いつもヤギの話ばっかりしてるんだと、奥さんも困っておった」
こう言って笑う弁造さんを何度見たことだろう。
弁造さんによると、Aさんとの出会いは、退職後に自給自足的な生活をしたいと考えるAさんが道内の土地をめぐっているときにたまたま出会い、自給自足の生活という部分で意気投合したのだという。
弁造さんにとって、自らの生活を自らの手で作っていくという行為は、何にも代え難い大切な行為だった。だからこそ、弁造さんは、考古学の世界に身をおきながらもヤギを飼って自給自足的な暮らしをしたいというAさんに限りない親近感を覚え、何か応援できることがあればと常に考えているようだった。

そんなAさんに会える日を弁造さんはいつも楽しみしていた。
僕の知るところによると、弁造さんとAさんは毎年、春になると再会していた。
弁造さんは雪が消えるといつも果実のなる木を植えることを習慣にしていた。
その甲斐あって弁造さんの庭には、無数の果樹が並び、収穫の季節は、採りきれないないほどの果実が実った。
僕からしてみると、庭の面積に対し、果樹の数は十分過ぎるように思えたが、それでも、弁造さんは春になるとやっぱり果樹を植えた。
でも、今思えば、弁造さんが果樹を植える理由はきっとAさんにあったのだと思う。
弁造さんは、春になると果樹を購入するために札幌の雪印種苗を訪れることにしていたのだが、新十津川から札幌への小さな旅の同伴者は、Aさんだった。
Aさんはいつも札幌の自宅から新十津川にいる弁造さんを迎えに来てくれて、一緒に雪印種苗に行き、一緒に果樹を買ってから再び新十津川に弁造さんを送り届けてくれた。そして、別れる前にはいつも弁造さんと一緒に弁造さんが半生をかけて作ってきた自給自足の庭を散歩するのだった。
Aさんを前にして、いたずらな笑顔で冗談を交えながら楽しそうに話す弁造さん。Aさんとの札幌への小さな旅は、弁造さんにとって本当に幸せな時間だったに違いない。

もう4年ぐらい前になるだろうか。
僕も弁造さんとAさんの再会に交えてもらうことになった。
僕がちょうど先に弁造さんの家に滞在していたので、僕の車で弁造さんを乗せてAさんの待つ札幌に行き、雪印に行くという計画を立てた。
この計画は、弁造さんの家からAさんに電話をして決めたのだが、電話越しに聞くAさんの声は穏やかな気配に満ち、弁造さんがなぜAさんのことを好きなのか、少しだけわかったような気がした。
でも結局、Aさんとは会うことができなかった。
翌朝、弁造さんは体調を崩し、札幌行きを断念したからだった。
そして、それ以来、弁造さんが果樹を求めて札幌に行くことはなかった。
90歳を迎えようとするなかで、体力に自信がなくなったのか、弁造さん自らが札幌行きを断念するようになったのだ。

こうして、あの年以来、Aさんと弁造さんの春の一日だけの小さな旅は終わってしまったが、その代わりにAさんが弁造さんを訪ねるようになった。
Aさんと弁造さんの間で話されたことがどういうことだったのか僕が知る由もないが、弁造さんはいつも僕に、今年もAさんが訪ねてきてくれたこと、一緒に庭を散歩したたことを自慢げに話してくれた。
また、Aさんが自身の研究成果をまとめ、著書を記したこと新聞で知ると弁造さんは自分のことのように喜び、「わしもいつかAさんの研究書を読んでみたいなあ。Aさんは今、オホーツクの古い時代のことを研究しているんだそうだ」と、Aさんの著書を紹介する新聞記事の切り抜きを手に何度もつぶやいた。
そして、庭にはAさんの大好物だというユキザサをたくさん植えては、「Aさんはユキザサに目がないそうなんだ」と僕にうれしそうに教えてくれた。

こんな感じで弁造さんがAさんのことを楽しそうに話すたび、僕もきっといつかAさんと会える日が来るだろうと期待していたが、その機会は簡単にはめぐってこなかった。
そして、皮肉なことに、僕がはじめてAさんと会えたのは、弁造さんの死がどのようなものであったのかを報告するという目的でのことだった。

先日の4月23日に弁造さんが逝き、お通夜お葬式、家の整理が終わった後、僕は弁造さんの部屋に生けられてあった山桜を持って札幌の北大に向かった。

函館港から弁造さんの暮らす新十津川に向かう際、札幌をいつも通るのだが、北大の敷地に入るのははじめてのことだった。
有名なポプラの並木道がまっすぐに伸びる敷地には、学生だけではなく、家族連れをはじめ多くの人がのんびりと散歩し、北の遅い春を楽しんでいた。
鮮やかな新緑に抱かれた風景とそれを喜ぶ人たちの表情を僕自身も楽しみながら、桜の枝を抱え、Aさんの研究室まで歩いた。
弁造さんのお通夜の前日、Aさんに弁造さんの訃報を知らせたところ、Aさんは驚きを隠しきれないでいたが、いつかの穏やかな声と同じ口調で、「どうしても抜けられない仕事があってお葬式には行くことができませんが、お帰りの際、どうかこちらに立ち寄ってくださいませんか」と言った。
そのときの僕はAさんの声を聞きながら、たぶん行くことはないだろうと考えていた。断る理由はなかったが、弁造さんが逝ったことについて上手に話せないような気がしたからだった。
でも、お葬式でAさんが送ってくれた弁造さんへの思いがこもった弔電を聞き、弁造さんの部屋に生けられた桜が時間を追うごとに膨らんでいく様子を眼にしているうちに、これを持ってAさんに会いに行こうと思った。
弁造さんが桜をAさんに見せたいと思っていたかどうかはわからないけれど、もし、Aさんの手のなかで弁造さんの桜が咲くことができれば、そんな素敵なことはないと思えたからだった。

Aさんの研究室がある北大の博物館の前に着き、電話をするとAさんは急いで迎えにきてくれた。柔らかな声の印象とは違い、Aさんは痩身でとても凛々しい顔立ちの人だった。そして、「ああ、これが弁造さんが大好きだったAさんなんだ」と思うと何だか不思議な気持ちがした。
僕とAさんを結ぶ唯一の存在である弁造さんはいなくなったけれど、それをきっかけとして、こうしてAさんと会えたこと。弁造さんが引き合わせてくれたのだろうかと、いつもであれば全く考えないようなことを思ったりした。

Aさんの研究室には気がつけば、1時間半も滞在していた。
話す内容は当然、弁造さんのことだった。弁造さんと一緒にいて、こういうことがあった。弁造さんってこういう人だ。弁造さんはこういうことを言っていたなど、僕が知る弁造さん、Aさんが知る弁造さんを交換するようにそれぞれが話をした。
それは、弁造さんが逝ったことを知らされた日以来、ずっと硬直し続けていた心境が解けていくような時間だった。と、同時に弁造さんに別れを告げる僕の旅が静かに終わっていく時間でもあった。

岩手に帰ってから、Aさんからメールをいただいた。
そこには弁造さんの部屋に生けてあった桜がAさんの視線の先で静かに咲いたことと、弁造さんがAさんにとってどういう人間であったのかが綴られていた。
「弁造さんは絵に止まらない。生活すべてが芸術。いわば芸術生活」と弁造さんのことを記したAさんのメールは研究者らしい硬質な言葉で組み立てられ、と同時に弁造さんへの深く温かな愛情があふれていた。
以来、Aさんと何度かメールのやり取りがあり、先日のメールでは、僕がまた弁造さんの土地を訪ねることがあれば、「クロ君と一緒に拙宅にお泊りください」と綴られていた。
これを読んだとき、僕は必ず会いに行こうと思った。次は、もっと、弁造さんのことを上手に話せるはずだ。そう思えたからだった。

弁造さんが大切にしていたサトウカエデが紅葉する頃になるだろうか。Aさんを訪ねるときには、弁造さんの絵を撮った写真を額装して持っていこう。そして、弁造さんの絵が写った写真を抱くAさんの写真を撮らせてもらおう。
弁造さんはいなくなってしまったけれど、「弁造さんのこと」にカメラを向けながら、少しずつでもいいから弁造さんの写真を前に進めていこう。
今の僕ができることとはきっとそういうことだと考えている。

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毎日眺めている写真 2012

※来週6月20日より銀座Nikonサロンで奥山淳志写真展「彼の生活 country songsより」が始まります。未完成な写真群ではありますが、お時間がございましたらご高覧いただけると幸いです。
なお、展示会場へのアクセス等につきましては詳しくは下記のHPをご覧ください。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2012/06_ginza.htm#03


「彼の生活」Country songsより

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銀座Nikonサロンでの個展開催まであと、1ヶ月を切った。
会期は6月20~7月3日までの2週間。Nikonサロンで個展を開くのは2度目のことだ。
前回は、弁造さんの「明日をつくる人」、そして今回は、「彼の生活 Country Songsより」というもので、2006年に銀座のガーディアンガーデンで開催した「Country Songs ここで生きている」の続編に位置する作品となる。

2006年に発表した「Country Songs ここで生きている」は、1998年に岩手に移住して以来、少しづつ撮りためたもので、当時の僕としては岩手や東北の「今」の中で生きていくことの佇まいを表現しようと考えたものだった。
岩手が好きになって、移住していくかなかで見えてきた岩手、東北、そして地方の「現在」。たとえば過疎とか失業率とか、地方には問題は多いけれど、僕が気がかりでならなかったのは、そういう社会的な問題とカテゴライズされるものではなく、見えるか見えないかというレベルでありながらも確実に、しかも大きく変化していくその過程のなかに生きる人の心の気配だった。
言ってみればそういう気配は、僕の中であらかじめ気づいていた事柄ではなく、そこに暮らし、そこにいる人や風景にカメラを向けているうちにシコリが出来るような感じで意識の中に植え付けられたものだったように思う。

当時、この「Country Songs ここで生きている」に寄せた文章を読んでいくと、「変わらないこと切にを願いながらも、変わることを狂おしいほどに欲する」という言葉が見つかる。これはあくまで、岩手移住後7年が過ぎた僕の感覚に過ぎないものだが、2006年から6年たった今、この思いはより強く感じるようになっている。

おそらく「変わっていくこと」は地方のみに関わることではないはずだ。どこに住もうとも人間とは少なからずそうした感情を持って生きていることだろう。
ただ、僕が岩手という土地に暮らし、東北にある暮らしを見ていると、変わるためには捨てようとするものがあまりに大きく、また生々しいものだと痛感する。
こうしたものを前に、どのように選択をしていくかについては、個々人やタイミングにゆだねられるとは思う。
後になって、後悔もあるだろうし、先見性に自画自賛することもあるだろう。
ただ、今の僕としてはずいぶん乱暴なのだが、どのような結果になってもいいのだと考えている。
賢明であることに越したことはないが、それが正しかったかどうかという判断は、いつの時代であっても後からついてきて、しかもそれはその場その場で揺れ動くからだ。
そして、何より「判断」そのものこそ「今」であり、「僕たち」自身であるからだ。
でも、だからこそ、この土地が「判断」を続けていくなかで、何を捨て、何を得ていくのか、その部分を見つめていきたいと考えてきた。
その行為こそが、将来、過去に行った判断の結果を向き合う覚悟を養うだろうと信じているからだ。

ガーディアンガーデンで発表した「Country Songs ここで生きている」が僕にとってのこの作業のはじまりだとするならば、今回発表する「彼の生活」は別の角度から、「今」を生きることについてじっくりと考える機会を作ってくれた作品だ。

「彼」こと市村博之さんに出会ったのは、2005年のことだった。
その頃の彼は、それまで住んでいた滋賀県から、岩手の雪深い山村で空き家となっていた築200年以上の茅葺き民家で生活を始めたばかりだった。
本当に偶然の出会いだったが、僕は、何も持たない彼が、時の忘れ物のように映る古民家で暮らしを作っていこうとする姿に、深い興味を覚えた。
そして、彼を何度か訪ね、彼の理想や逡巡を知っていくかなかで、もしかして、この土地で「今」を生きることを彼を通じて撮れるかもしれないと思うようになった。彼の心にあるものは、彼自身の個人的なものには違いなかったが、僕にとっては、今を生きることへと根っこでつながっているように思えたからだった。

こうして始まった彼の生活に伴走するような撮影行為だったが、彼がこれまで続けてきた「生活していくこと」についての選択は、ある意味、挫折の連続でもあり、楽天的に生きる僕の中にいつも悔しさやもどかしさといった感情を芽生えさせるものだった。
きっと、彼自身も自分自身にそうしたものを感じ続けていただろう。

しかし、彼は、僕のそんな感情やつまらない助言に左右されることなく、常に自らの問題に対し真摯であり続けた。
たくさんのものをつくり、同じだけたくさんのものを失くしてしまうような日々だったが、彼はその上で揺らぎながらも強く立ち続けようとした。その行為は恐ろしく不器用なものだったが、そこには何か大切なものを宿しているようにも見えた。

とはいえ、ずっと彼を撮ってきて、答えのようなものはなにもない。
こうして写真展を開くことになったが、内容を問われれば、戸惑いも隠せない。
彼こと「市村博之さん」という人が僕のカメラの前にいて、その生活が写し出された写真群。
それを見たある人は、自然の中で暮らす彼に羨ましさを覚えるかもしれないし、気ままに引っ越しを繰り返す彼に、現代の若者の無責任さを見るかもしれない。またある人は、故郷に戻った彼に安心感を覚えたり、経済や社会と結びつきを遠ざける彼に情けない感情を抱くかもしれない。あるいは、彼のひたむきなまでの純粋さや弱くもあり強くもある精神の佇まいに痛みにも近い印象を得る人もいるかもしれない。
こうした印象のすべては、僕も少なからず感じてきたものだ。
これらのものをすべてひっくるめての「彼の生活」。
今回の写真群とはそういうものだと感じている。

先週、約1週間かけて暗室にこもり、大全紙のカラープリントを40枚仕上げた。早朝から夜中まで「彼」のことを考え続け、僕の中に残ったものは、彼の揺らぎと真摯さだった。

20日オープニングからの数日と、クロージング前の数日は、僕も在廊させていただく予定です。
お時間が許す限り、ご覧いただければ幸いです。

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