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新しい記憶

先日、不思議な思いに捉われた。
その日は一日、暗室に入っていた。
プリントしたのは先月撮影した雑誌の仕事で、翌日が入稿となっていた。カット数は11枚。プリント作業は順調に進み、夕方には何とか終えることができた。

少し休憩した後、ずっと気にかかっていたフィルムのベタ焼きを取り始めた。
2月の終わり、弁造さんを訪ねたときのフィルムだった。本数にしたら50本ほど。最近の弁造さんへの旅ではいつもこのぐらいの本数だ。
もちろん現像後のフィルムには眼を通していた。今年は歴史的な大雪で、丸太小屋の周囲は数mの雪に覆われていた。弁造さんが暮らす新十津川に通い始めて14年になるがこれほどの雪が写っているのは初めてのことだった。でも、フィルムのなかには変わることのない弁造さんの姿があった。

「変わることがない弁造さん」。これは例えでも何でもない。弁造さんは基本的にあまり洋服を着替えることがない。生活の様式も「完成」の域にあり、目新しいことはほとんどない。食べるものが同じだから買い物の内容も同じだし、イーゼルの位置は1ミリも動くことはなく、天井に吊るされた鉄の棒に干された軍手、枕元にころがっている電池式のひげ剃りなども常にそこにある。伸びるはずの毛髪だって、自分でこまめに切っているから髪型もいつも同じだ。そのため、写真の中の弁造さんもまた、ほとんど変化がない。同じ季節であれば、以前に撮ったものと区別できないほどだ。

2月に撮った写真もそうだった。
いつもと同じように弁造さんと過ごした数日間。92歳を迎え、体力は次第に落ちてきているものの、ここ数年はこう着状態だった。
だから、僕もいつもと同じローライフレックスで、いつもと同じフィルムで、いつもと同じ絞りとシャッターの組み合わせで、いつもと同じペースで何ひとつ変わることなく撮った。

僕はコダックのブローニーフィルムを使っている。
コダックのブローニーフィルムは巻き取った後、巻き紙を舐めて糊を濡らし、両手の指でキュッとたるみを巻き上げてからしっかりと止める
そして、カメラ内の空のスプールを移動させ、新しいフィルムを装填し、12回シャッターを押したら、またフィルムを交換する。
この作業を数日間の間に約50回繰り返す。
弁造さんを訪れた14年間、これ以上でもなく、これ以下でもない、ただそれだけのことを繰り返してきた。
永遠のマンネリ。自分でもあきれてしまう。でも、僕には他に有効な手だてはなく、こうするしかなかった。弁造さんの写真とはそういう写真群だ。
今回もそんな写真がずらずらと並んでいるフィルムを手に取り、ベタ焼きをとった。

でも、露光後に印画紙をプロセッサーに流し込み、そこから出てきた印画紙を覗き込んだとき、動悸が激しくなるほど驚いた。
そこに生きている弁造さんがいたからだ。
当たり前だ。弁造さんが逝く約1ヶ月前に撮られた写真だ。そこには、普段の弁造さんがいて当然だ。
でも、僕は弁造さんが「生きていること」にただただ驚いてしまった。写真の中の弁造さんには、当たり前だが死の気配は微塵もなく、いつもと同じようにいつもと変わらずにいつものままの弁造さんだった。

僕はしばし、呆然とした。
弁造さんは死んだはずだった。それは生身の弁造さんだけの出来事ではなく、僕の中にいた弁造さんも確かに死んだ。
にもかかわらず、眼の前の印画紙の中では弁造さんが生きていた。不思議で不思議でしょうがなかった。
それでもその不思議さを抱えたまま、ベタ取りを進めた。とどまることは許されないと思った。

そして50枚のベタが出来上がった後、その一枚一枚を眺めながらいつものソファーで少しだけ眠り、早朝に眼を覚ますと、再び暗室に入った。次にやることは、死んでしまった弁造さんを撮ったフィルムのベタをとることだった。
フィルムは約50本。今回もいつもと同じだった。
フィルムは、いきなり棺の中で眼を閉じた弁造さんから始まっていた。左の頬にガーゼを当て、包帯を巻かれた頭は白い帽子をかぶっているように見えた。

死んで冷たくなってしまった弁造さん。生前、僕はその姿を幾度となく想像していた。
少し大げさに言うとここ数年は毎日、弁造さんが死んでしまったことを想像していたといってもいいほどだった。
弁造さんと会っても、よく弁造さんが死んでしまうことの話をした。
おかしな話だが、僕と弁造さんにとって、弁造さんが死んでしまうことは一番頻繁な話題だった。僕と弁造さんにとって、死は生きることと同義で、生きていくことの話はつまり死ぬことの話でもあった。

とはいえ、訃報を聞いて、フェリーに飛び乗り、車を何時間も走らせて到着した新十津川で死んでしまった弁造さんと対面したときには、まったく現実味がわかなかった。
そこにいるのは、見慣れたはずの弁造さんだったが、僕の知らない弁造さんにしか思えなかった。
僕自身も僕ではない人間になったかのように思えた。感情が幾度となくおかしな揺れ方をした。
だから、何度も何度も弁造さんの冷たくなった頬を触ってみた。そして、弁造さんが死んでしまったことを、手のひらに伝えられた柔らかくも冷ややかな感触から、決して眼を開けることがない顔を見続ける自分自身の眼から、理解しようとした。
何より、火葬が終わり、灼熱に抱かれた弁造さんの頭骨の一部を僕が持ち帰るための木箱に入れたとき、木箱を通して伝えられた骨の熱で弁造さんが死んだことを自分のものにしようとした。
僕は両手で骨の入った木箱を握りしめ、板を通して伝えられるこの燃え続ける炎のような骨の熱さを絶対に一生忘れないで生きていくことを自分自身に誓った。そして箱が壊れてしまうほどに強く握りしめた。
そのとき、もしかしたら生きていた弁造さんと決別したのかもしれない。

だからなのだろうか。ベタの中で生きている弁造さんに驚きながらも、ベタの中で死んでしまっているその姿にはまったく驚かなかった。
棺の中で神妙に眼を閉じた姿は、僕にとって弁造さん以外の何者でもなかった。
そうか、知らぬ間に弁造さんは入れ替わってしまったんだと、何となく理解した。
僕のなかで弁造さんは完全に死んでしまって、もう生きてはいなかった。
僕の記憶は、僕の了解を得ぬまま、弁造さんを更新してしまっていた。
記憶とは何と残酷なものなのだろうか。時が逆にたどることを絶対に許さないように、新しい記憶は過去をそのままにしておかないのだろう。呑み込むような激しさでこれまでの記憶に覆いかぶさってきた。
弁造さんのあの人懐っこく甲高い声も、背中に手を合わせて歩く姿も、よれよれで汚らしい手ぬぐいを首に巻くときの仕草も、女の人の指先のように繊細な影を落とす絵筆を持った手も、何もかもすべて過去のものとなってしまい、僕の記憶の一番上で堂々と立っていたのは弁造さんの死んで冷たくなってしまった姿だった。

これは悲しいことなのだろうか。僕の感情としてはやはり悲しい。しかし、なぜか絶望的に悲しいことではないようにも感じる。
この記憶の更新が何かを生むのかと問われてもまったくわからない。だからといって、そういうこと、わからないこと、時が解決することだと諦めることもできない。
結局は、ただただ、呆然とするしかない。本当にただただ呆然とするしかない。
僕の中にある弁造さんの記憶が止まってしまったということの前で立ち尽くすしかない。

ずっと写真をやってきて、写真はずっと残酷なものだと思ってきた。
写真はカメラの前の現実を何の感情もなく切り取る。その切れ味の良さはときにあまりにも冷酷だと感じてきた。
でも、今は違う。
写真であれば、時を遡ることができる。それもとびっきり自由に。
出会ったばかりの頃の78歳だった弁造さんの笑顔にたどりつき、なかなか絵がかけずに苦し紛れにユーモアを連発する弁造さんに触れ、余計な口喧嘩をしてしまい膨れっ面のまま眼を合わせない最近の弁造さんに声をかけることができる。
そうか、写真は優しいんだ。
僕はこうしてずっと追い続けてきた写真の秘密を知ることができたのだろうか。
でも、弁造さんを失った代償はたったこれだけのことなのだろうか。

写真が優しいことなんて知らなくても、やっぱり僕は弁造さんともう少しだけ、生きることの謎解きを続けていきたかった。
弁造さんの年齢を考えると、その旅がもう少しで終わってしまうことは十分に承知していた。
でも、きっと、もう少しで何かが見つかるはずだった。
そんなことは幻想だともう一人の僕は言うだろう。現実主義者でシニカルなもうひとりの僕だ。
人生の最期にクライマックスが訪れるなんて、とうの昔に捨てた幻想だろうとせせら笑っている。
その通りかもしれない。
現にこうして僕の記憶の一番上にあるのは死んでしまい冷たくなった弁造さんなのだから。
それでも何とかして、悪あがきでもいいから弁造さんとの旅を続けたいと心の底から願う。
僕の手の中にある弁造さんの大量の写真や遺品。これらを糧として、死んでしまった弁造さんの記憶をさらに更新することは不可能だろうか。
きっと、これは写真と記憶からの弁造さんと僕に対する挑戦状だろう。であるならば、負けるとわかっていても逃げるわけにはいかない。今はそういう時だ。

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旅の終わり

再び、海峡を越え、弁造さんの遺骨とともに岩手に戻ってきた。
弁造さんの亡骸と2度の夜を過ごし、その身体を炎の奥に送り、灼熱の白骨と対面した後、2日間かけて弁造さんが暮らしていた小さな小さな丸太小屋を掃除して、一緒に弁造さんを見送った人たちに別れを告げて今回の旅が終わった。

これまでと同じように繰り返し、シャッターを押し続けた。
次第に硬く、冷たくなっていくその頬にレンズを向け、固く閉じられた瞼に並ぶ睫毛にピントを合わせ、繰り返し繰り返しシャッターを押した。
2時間たって炎の中から出てきた弁造さんの骨に対しても同じことを繰り返した。
炎のような熱を持ったその骨に向かって、「弁造さん」と呼ぶことには違和感を覚えつつも、僕には撮ることしか残されていなかった。
そして、生前の約束通り、骨を分けてもらった。
弁造さんは、スケッチブックに、「奥山淳志殿に遺骨の一部をゆずる」と記し、「一部だぞ、全部じゃないぞ。せっかくお寺さんの納骨堂を買ったんだからな。しっかり納まって元をとらにゃいかん」と言って笑っていたが、それが本当になってしまった。

「いいところをたくさんもらっていいからさ」と泣いているのか笑っているのかわからない表情で弟の正治さんが、箸を手にした僕を励ましてくれた。僕は、少し迷ったのち、白いドーム状で残った頭骨の一部を木箱に入れた。
すると、弁造さんの妹のせい子さんが、「口の骨はもらったのかい?」と言ったので、僕は、「いやいや、口の骨なんかもらったら最後、うるさくて眠られない」と返した。このやりとりで参列者は皆、大きな声を挙げて笑い、その弾んだ声は無機質な火葬場の気配を少しだけ柔らかなものにした。
宙に消える笑い声を追うように「本当に、おしゃべりな男だったなあ」と正治さんは続け、皆、言葉無く頷いた。

確かに弁造さんは本当に饒舌な人だった。僕が訪れると、待ってましたとばかりにしゃべりはじめ、それは別れの際まで続いた。
それがこうして一言も話すこともなく、乾ききった骨になってしまった。それは無に近いように思えた。
そうだ、弁造さんは、「死んだら何もない。無、ゼロの世界だ」と言っていた。
本当にあれほど存在感が無になってしまったのだろうか。
僕は改めてそのことに驚いた。人が無になるということについて。
でも、本当にそうだった。

弁造さんを炎の中に送った後、僕はすぐ建物の外に出て、煙突の先を見つめ続けた。きっと、弁造さんの存在を証明するようなしっかりとした煙が立ち上るだろうと考えたのだ。正治さんも、「煙になった兄貴を撮ってくれ」と僕の背中を押した。
でも、煙はほとんど、立ち昇らなかった。4月の淡い青の中に溶け入るかのように、おぼろげな煙が昇ったかと思うとすぐに透明になり、その先には空の青さだけがあった。
きっと、フィルムには定着できなかっただろう。

弁造さんの頭骨を納めた木箱を両手で握りながら、煙が見えなかったことを思い起こした。手には重みが感じられたが、その重さは木箱のそれで、弁造さんの存在感ではないように感じた。
それは、今まさに弁造さんはいなくなってしまった、という実感を伝えていた。

弁造さんの死について、僕は戸惑い続けた。
それが、あまりにも理不尽な死だったからだ。
92歳で寿命という年齢にあることは間違いなかったが、亡くなった直接の原因は、車にはねられた結果で寿命という言葉にあてはまるものではなかった。
弁造さんがはねられた現場にはブレーキ痕もなく、約50mに渡って、長靴や帽子がはねとんでいた。死亡が確認されたのは搬送先の病院でのことだったが、実際には即死に近い状態だったという。
こうして弁造さんが逝ったことについて、それを運命と呼んでいいのか。今の僕には判断がつかない。
でも、僕は、この死によって、弁造さんという存在を喪い、弁造さんとの時間は過去のものとなった。
弁造さんにとっては、自らの存在そのものが過去のものになった。

弁造さんは生前、買い物のレシートの裏に「何かを得て、何かを失う」と記していた。
それは「生きること」の絶対の約束だと僕も信じていた。
両手で持ち得る量は限られていて、何かを乗せれば、何かがこぼれ落ちる。
それが「生きること」の日々の本質であると、弁造さんは語り、僕は頷いた。

では、弁造さんは自らを失い、何を得たのだろうか。
弁造さんを通じて、この謎めいた「生きること」の答えを得るチャンスを失った僕は、代わりに何を得たのだろうか。
世界は弁造さんを失うことで、新しい世界を得たというのだろうか。

火葬場から再びお寺に戻り、読経を済ませた後、僕は分けてもらった骨とともに、弁造さんの丸太小屋に戻った。
ドアを開け、薪ストーブの火の消えた部屋にあがり、裸電球のスイッチを引く。その明かりに照らされたのは、実に細々とした生活の品々だった。
枕元のまわりには、なぜだかわからないけれど、メジャーが4つもあったり、石ころがあったり、小銭の入った缶や歴代の入れ歯や動かない時計や手紙やペンや途中で使うのをやめた手帖や箱に入った無数のメモや何だかよくわからない鉄クズなんかがころがっていた。それらの多くは、弁造さんしかその価値を理解できないものだった。
冷蔵庫の中では日数を経た食品がいっぱい詰まっていた。弁造さんは、賞味期限を気にしたことがない。だからなのだが、冷蔵庫の中は少しばかり異臭がした。でも、それは弁造さんの部屋の匂いと呼べるものだった。僕はそのすえた匂いをいつも懐かしい思いで嗅いできたのだ。

とりあえず、ベッド周りを掃除した。掃除が終わるまで、弁造さんの家に泊まろうと思ったからだ。
問題はベッドの大きさで、150cmほどの弁造さんの身長に合わせられたベッドで僕が寝れるのだろうかと思いながら掃除をした。
でも、実際に横になってみると、少し斜めになれば両足を伸ばしても大丈夫だった。
僕は横になりながら、テレビをつけた。弁造さんは横になりながらいつも棚の上に置いてあるテレビを見ていた。
でも、今日は、テレビとベッドの枕元を結ぶ直線上に障害物があった。
改めてその障害物を眺めた。
それは、桜の枝で、水を張ったバケツに生けられていた。

僕は、弁造さんのこうした行動をこれまで見たことはなかった。
森を育ててきた弁造さんのことだ。植物を育てることは日常の一部だった。訪ねるたびに弁造さんは僕を庭に連れて行き、「今年は、こいつを育ててるんじゃ」と、果樹や山菜の類いを見せてくれた。
でも生け花は一度も見たことがなかった。弁造さんが興味があるのは、土に根を張った植物たちで、決して自分の手のなかにある存在ではなかった。
でも、こうして弁造さんの部屋には、つぼみをたくさん付けた桜の枝が春を待っていた。

今年の北海道は、記録的な大雪で4月を迎えても寒い日が続いていた。
弁造さんは、遅い春にしびれをきらし、桜の花を咲かせてみようと思ったのだろうか。それとも誰かに咲かせた桜をあげようと思ったのだろうか。
でも、突然の死は、こんな簡単な問いをすることも許さなかった。その瞬間から先に立ち入ることを許しはしないというのが、今回の出来事だ。

結局、弁造さんの死とはそういうことだ。
これまで続けてきたプロセスを叩き切り、いきなり結果を持ち込んできた。
結果は、92歳の人生。長生きはしたが、最後は可哀想だったという人生。でも、本当に哀しいのは、結果ではない。弁造さんがプロセスを続けられなくなったことだ。
つまんないことだけど、バケツに生けた桜の枝が咲かせた花を数えたり、明後日、買い物にいくために書いていた物忘れをしないためのメモの続きを書いたり、シューシューと音を立てて走るシニアカーを充電したり、そんなどうでもいいことすら途上で終わってしまったことだ。
もちろん、絵を描くことも、木を植えることも、すべて途切れてしまった。

そんなどうしようもないことを2日間、考えながら弁造さんの部屋を掃除した。
家の中にあるものはほとんどが不要なもので、ゴミとして家の外に積み上げた。
弁造さんの家も納屋も、近いうちに解体し、更地にと戻すことが決まっている。僕ができることは、速やかに解体が進むようにするだけだ。

好天もあって、作業は思いのほか順調に進んだ。何より不要品は予想よりも少なく、5m四方程度のブルーシートで覆える程度だった。ネズミのように物を溜め込む性格の弁造さんだったが、それは見た目だけで実際は、最小限の物で92年間を生きてきたのだった。

ガランとして広くなった部屋で過ごした夜は妙な気分だった。弁造さんの家だけれどもそうではない。何かが同じで何かが違う。起きているときに見る夢といった感じだろうか。
これこそが弁造さんがいなくなった世界の印象なのかもしれないなと思ったりした。
そうしているうちに僕は弁造さんのベッドの上で眠ってしまった。
うたた寝に思えたが、隣で寝ていたさくらの鳴き声で眼を覚ました時には、もう朝になっていて、外からはこの時期特有のオオジシギの激しい羽ばたき音が聞こえてきていた。
オオジシギはかつて弁造さんたちが耕した土地の上に広がる空を飛び交い、翼の音を降らせていた。そのけたたましい響きは北海道に初夏の風物詩と呼べるものだった。

その日、何もすることがなくなった僕は、弁造さんの家に別れを告げ、さくらと一緒に函館に向かった。
夜のフェリーは、暗闇の海峡を進んだ。海原はどこまでも静かで、それは数日前、弁造さんに会うために渡った海峡の気配と同じだった。
でも、きっと同じではないのだろう。眼に見える世界は同じでも、そのディティールは絶えず変化し続けている。

夜明けと同時に船は青森港に到着した。
朝靄にかすむ海に向けてシャッターを押し、12枚撮りのフィルムは8枚目だったが、フィルムを巻き取った。
今、僕の部屋には、弁造さんが遺した大量のメモやスケッチ、そして油絵がある。
これら、弁造さんの匂いのするものとどうやって向き合っていくか、今はそれをぼんやりと考え続けている。

弁造さんが生けていた桜は、岩手に来て花を開かせた。満開は明日になるだろう。

スケッチ.jpg
2012 遠い日のスケッチ

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