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弁造さんのこと12.20

大阪での個展が終わり、再び弁造さんの撮影を始めようとしている。
今、向かおうとしているのは、僕の知らない弁造さんだ。

先月、個展会場の大阪から岩手への帰路、東京に立寄り、キュレーターの太田菜穂子さんを訪ねた。
持参したのは、2年前に行った弁造さんの個展、「Drawing」の際に作った約50点からなるポートフォリオ。
これに投げかけられた太田さんの言葉は、僕の中でぼんやりとしていたことを明確にしつつ、新たな発見をもたらせてくれた。
そして、太田さんからひとつの大きな問いかけをいただいた。
それは、「1980年でもない、2000年でもない。2012年という時代に弁造さんを撮り、表現する意味はどこにあるの?」というものだった。

「今」という時代を忘れないこと。それは写真を撮るうえで最も大切にしていきたことのひとつだ。
でも、果たしてこのことが僕がこれまで撮ってきた写真に写っていたのかどうか。
写真は、過去でも未来でもなく「今」しか写せないものだから、という写真の大原則の上にあぐらをかいていなかったか。
本当に今の時代に必要なことを自らの眼で見定め、これまでの写真に足りなかったことを追求しようとしたのか。
何ひとつできていない。太田さんの言葉で気づいたのはそういうことだった。

気付くのが遅すぎたのかもしれない。
弁造さんはすでにいなくなり、生きたその姿を撮ることはできなくなってしまっている。
では、どうすればいいのか。
この一ヶ月、ずっと考え続けてきたことだ。
弁造さんの写真を今の時代と、これからの時代への問いかけとするには何をすべきか。
それは未来の僕へ、弁造さんの写真をどう受け渡していくかということでもある。

そこで改めてその存在に気づいたのが、段ボール4箱分の弁造さんの遺品だ。
メモ、スケッチ、その他、記録。弁造さんの家を整理した際に持ってきたものだ。
弁造さんの持ち物のすべてを持ち帰ることはできないから、そのかわりにと、弁造さんの肉筆が記されたものを中心にかき集めてきた。

今年の5月からそれらは僕の仕事場の片隅で静かに呼吸するようにしてずっと在ったけれど、どう扱っていいのかわからず、ある意味放置してきた。
太田さんに会って以降、いろいろと考えれば考えるほど、これらの遺品の存在が気になってきたのだ。
そして、少しずつ、遺品の中をのぞきはじめた。

見えてきたのは僕の知らない弁造さんだ。
僕が知っているには78歳から92歳までの弁造さんで、それ以前は弁造さんから思い出話を聞いた限りでしかない。
そもそも78歳からだって、知っていると思うのは間違いだろう。年に数回、訪ねてきただけ。結局は断片しか知らない。
僕の中の弁造さんとはそういうものなのだ。
遺品はそういうことを気づかせてくれるともに、僕の知らなかった弁造さんの姿を不思議なリアリティーを持って語り始めたのだ。

ある封筒からはまだ30代とおぼしき弁造さんの免許証用の写真が現れ、また別なところからは昭和48年の大塚から五反田までの一ヶ月の定期券が現れ、どのような目的があったのかわかりかねる新聞の切り抜きの間からは、震える字で綴られた買い物のメモが大量にはさまっているといった具合。いずれも弁造さんの体温を感じるようなものばかりだが、だからといって、すべてが腑に落ちるものでもない。

なぜ、弁造さんを撮ってきたか。何のために弁造さんを撮ってきたか。
正直に言うと、それは、僕のなかでずっと螺旋を描くようにグルグルと回り続けてきた。14年間。迷い続けてきた。
その場しのぎで理由をでっち上げ、いままでやってきた。撮り続けてきた一番の理由は、なぜかやめられなかったから。
結局はそういうことだ。
でも、遺品を前にして、少しだけ確かな理由が見えてきたような気がした。
弁造さんを撮らなくてはならない理由。

それは、写真を通じて、「人間」に触れたかったのだ。
ヒューマニズムとかではなく、シャッターを押すことで、手にしたカメラと弁造さんという「人間」の距離が縮まっていくような気がしていた。
距離が縮まっていくことで、その先に具体的に見たいものがあったのではないのかもしれない。一回、また一回とシャッターを押す、そのプロセスのなかかで、一歩、一歩人間に近づいていける。おそらくそれをずっと求めていたのだろう。

では、弁造さんに近づこうとした14年間で、それは距離は十分に詰めることができたか。
まだ、足りない。欠けているものがたくさんある。
それは弁造さんを撮るうえで考えてきた「生きることの謎解き」の答えが出ていないことではなく、まだ、弁造さんという人間への距離が詰め切れてない。単純にそういうことなんだろう。

弁造さんの遺品は、再び、僕のこのチャンスを与えてくれようとしているのだろうか。
僕たちを司る時間というものは一方通行だ。現在は瞬時に過去となり、ひたすらに膨大な過去を生み出して行く。
勢いよく倒れながら進むドミノのようなもので、後戻りは決して許されない。
でも、僕の手の中にある弁造さんの遺品には、この時間が当てはまらない。
過去へ過去へと僕を連れていくのだ。

大塚と五反田とを結ぶ1ヶ月間の定期。昭和48年の3月1日から3月31日までの31日間。52歳だった弁造さんは、何を目的として北海道から海峡を渡り、東京で暮らしていたのだろう。絵を学ぶためだったろうか。それとも出稼ぎだったろうか。
そして、そのとき、弁造さんの心を占めていたものはなんだったのだろうか。

そう、僕はやっぱり弁造さんのことを本当に知らない。話を聞いた断片から想像はできてもやっぱり、知らない弁造さんばかりだ。
でも、間違いなく言えることは僕はそんな弁造さんのことを知りたいと思う。
免許証用の写真に写る僕の知らない弁造さんという人生に写真を撮ることを通じて近づきたいと思う。

太田さんと弁造さんのことをいろいろ話したとき、ふと、「弁造さんが突然逝ったこと、それはあなたに対するギフトじゃないかしら」と太田さんがつぶやいた。
ギフトかどうかはちょっとわからないけれど、こうして弁造さんが逝った後も、僕は弁造さんの写真を続けるチャンスを持ち続けることができている。それは本当に幸福のことだし、何ともいえない縁や不思議さを感じる。
人間の不思議さと、生きることの不可解さと、人生というどこにでもころがっている単純な出来事と…それを撮ることができれば、それは今、この時代に弁造さんを撮る意味になってくれるのだろうか。

まずはシャッターを押してみること。はじまりはそこしかない。

0415.jpg
知らない弁造さん 2012


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