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旅の終わり
再び、海峡を越え、弁造さんの遺骨とともに岩手に戻ってきた。
弁造さんの亡骸と2度の夜を過ごし、その身体を炎の奥に送り、灼熱の白骨と対面した後、2日間かけて弁造さんが暮らしていた小さな小さな丸太小屋を掃除して、一緒に弁造さんを見送った人たちに別れを告げて今回の旅が終わった。
これまでと同じように繰り返し、シャッターを押し続けた。
次第に硬く、冷たくなっていくその頬にレンズを向け、固く閉じられた瞼に並ぶ睫毛にピントを合わせ、繰り返し繰り返しシャッターを押した。
2時間たって炎の中から出てきた弁造さんの骨に対しても同じことを繰り返した。
炎のような熱を持ったその骨に向かって、「弁造さん」と呼ぶことには違和感を覚えつつも、僕には撮ることしか残されていなかった。
そして、生前の約束通り、骨を分けてもらった。
弁造さんは、スケッチブックに、「奥山淳志殿に遺骨の一部をゆずる」と記し、「一部だぞ、全部じゃないぞ。せっかくお寺さんの納骨堂を買ったんだからな。しっかり納まって元をとらにゃいかん」と言って笑っていたが、それが本当になってしまった。
「いいところをたくさんもらっていいからさ」と泣いているのか笑っているのかわからない表情で弟の正治さんが、箸を手にした僕を励ましてくれた。僕は、少し迷ったのち、白いドーム状で残った頭骨の一部を木箱に入れた。
すると、弁造さんの妹のせい子さんが、「口の骨はもらったのかい?」と言ったので、僕は、「いやいや、口の骨なんかもらったら最後、うるさくて眠られない」と返した。このやりとりで参列者は皆、大きな声を挙げて笑い、その弾んだ声は無機質な火葬場の気配を少しだけ柔らかなものにした。
宙に消える笑い声を追うように「本当に、おしゃべりな男だったなあ」と正治さんは続け、皆、言葉無く頷いた。
確かに弁造さんは本当に饒舌な人だった。僕が訪れると、待ってましたとばかりにしゃべりはじめ、それは別れの際まで続いた。
それがこうして一言も話すこともなく、乾ききった骨になってしまった。それは無に近いように思えた。
そうだ、弁造さんは、「死んだら何もない。無、ゼロの世界だ」と言っていた。
本当にあれほど存在感が無になってしまったのだろうか。
僕は改めてそのことに驚いた。人が無になるということについて。
でも、本当にそうだった。
弁造さんを炎の中に送った後、僕はすぐ建物の外に出て、煙突の先を見つめ続けた。きっと、弁造さんの存在を証明するようなしっかりとした煙が立ち上るだろうと考えたのだ。正治さんも、「煙になった兄貴を撮ってくれ」と僕の背中を押した。
でも、煙はほとんど、立ち昇らなかった。4月の淡い青の中に溶け入るかのように、おぼろげな煙が昇ったかと思うとすぐに透明になり、その先には空の青さだけがあった。
きっと、フィルムには定着できなかっただろう。
弁造さんの頭骨を納めた木箱を両手で握りながら、煙が見えなかったことを思い起こした。手には重みが感じられたが、その重さは木箱のそれで、弁造さんの存在感ではないように感じた。
それは、今まさに弁造さんはいなくなってしまった、という実感を伝えていた。
弁造さんの死について、僕は戸惑い続けた。
それが、あまりにも理不尽な死だったからだ。
92歳で寿命という年齢にあることは間違いなかったが、亡くなった直接の原因は、車にはねられた結果で寿命という言葉にあてはまるものではなかった。
弁造さんがはねられた現場にはブレーキ痕もなく、約50mに渡って、長靴や帽子がはねとんでいた。死亡が確認されたのは搬送先の病院でのことだったが、実際には即死に近い状態だったという。
こうして弁造さんが逝ったことについて、それを運命と呼んでいいのか。今の僕には判断がつかない。
でも、僕は、この死によって、弁造さんという存在を喪い、弁造さんとの時間は過去のものとなった。
弁造さんにとっては、自らの存在そのものが過去のものになった。
弁造さんは生前、買い物のレシートの裏に「何かを得て、何かを失う」と記していた。
それは「生きること」の絶対の約束だと僕も信じていた。
両手で持ち得る量は限られていて、何かを乗せれば、何かがこぼれ落ちる。
それが「生きること」の日々の本質であると、弁造さんは語り、僕は頷いた。
では、弁造さんは自らを失い、何を得たのだろうか。
弁造さんを通じて、この謎めいた「生きること」の答えを得るチャンスを失った僕は、代わりに何を得たのだろうか。
世界は弁造さんを失うことで、新しい世界を得たというのだろうか。
火葬場から再びお寺に戻り、読経を済ませた後、僕は分けてもらった骨とともに、弁造さんの丸太小屋に戻った。
ドアを開け、薪ストーブの火の消えた部屋にあがり、裸電球のスイッチを引く。その明かりに照らされたのは、実に細々とした生活の品々だった。
枕元のまわりには、なぜだかわからないけれど、メジャーが4つもあったり、石ころがあったり、小銭の入った缶や歴代の入れ歯や動かない時計や手紙やペンや途中で使うのをやめた手帖や箱に入った無数のメモや何だかよくわからない鉄クズなんかがころがっていた。それらの多くは、弁造さんしかその価値を理解できないものだった。
冷蔵庫の中では日数を経た食品がいっぱい詰まっていた。弁造さんは、賞味期限を気にしたことがない。だからなのだが、冷蔵庫の中は少しばかり異臭がした。でも、それは弁造さんの部屋の匂いと呼べるものだった。僕はそのすえた匂いをいつも懐かしい思いで嗅いできたのだ。
とりあえず、ベッド周りを掃除した。掃除が終わるまで、弁造さんの家に泊まろうと思ったからだ。
問題はベッドの大きさで、150cmほどの弁造さんの身長に合わせられたベッドで僕が寝れるのだろうかと思いながら掃除をした。
でも、実際に横になってみると、少し斜めになれば両足を伸ばしても大丈夫だった。
僕は横になりながら、テレビをつけた。弁造さんは横になりながらいつも棚の上に置いてあるテレビを見ていた。
でも、今日は、テレビとベッドの枕元を結ぶ直線上に障害物があった。
改めてその障害物を眺めた。
それは、桜の枝で、水を張ったバケツに生けられていた。
僕は、弁造さんのこうした行動をこれまで見たことはなかった。
森を育ててきた弁造さんのことだ。植物を育てることは日常の一部だった。訪ねるたびに弁造さんは僕を庭に連れて行き、「今年は、こいつを育ててるんじゃ」と、果樹や山菜の類いを見せてくれた。
でも生け花は一度も見たことがなかった。弁造さんが興味があるのは、土に根を張った植物たちで、決して自分の手のなかにある存在ではなかった。
でも、こうして弁造さんの部屋には、つぼみをたくさん付けた桜の枝が春を待っていた。
今年の北海道は、記録的な大雪で4月を迎えても寒い日が続いていた。
弁造さんは、遅い春にしびれをきらし、桜の花を咲かせてみようと思ったのだろうか。それとも誰かに咲かせた桜をあげようと思ったのだろうか。
でも、突然の死は、こんな簡単な問いをすることも許さなかった。その瞬間から先に立ち入ることを許しはしないというのが、今回の出来事だ。
結局、弁造さんの死とはそういうことだ。
これまで続けてきたプロセスを叩き切り、いきなり結果を持ち込んできた。
結果は、92歳の人生。長生きはしたが、最後は可哀想だったという人生。でも、本当に哀しいのは、結果ではない。弁造さんがプロセスを続けられなくなったことだ。
つまんないことだけど、バケツに生けた桜の枝が咲かせた花を数えたり、明後日、買い物にいくために書いていた物忘れをしないためのメモの続きを書いたり、シューシューと音を立てて走るシニアカーを充電したり、そんなどうでもいいことすら途上で終わってしまったことだ。
もちろん、絵を描くことも、木を植えることも、すべて途切れてしまった。
そんなどうしようもないことを2日間、考えながら弁造さんの部屋を掃除した。
家の中にあるものはほとんどが不要なもので、ゴミとして家の外に積み上げた。
弁造さんの家も納屋も、近いうちに解体し、更地にと戻すことが決まっている。僕ができることは、速やかに解体が進むようにするだけだ。
好天もあって、作業は思いのほか順調に進んだ。何より不要品は予想よりも少なく、5m四方程度のブルーシートで覆える程度だった。ネズミのように物を溜め込む性格の弁造さんだったが、それは見た目だけで実際は、最小限の物で92年間を生きてきたのだった。
ガランとして広くなった部屋で過ごした夜は妙な気分だった。弁造さんの家だけれどもそうではない。何かが同じで何かが違う。起きているときに見る夢といった感じだろうか。
これこそが弁造さんがいなくなった世界の印象なのかもしれないなと思ったりした。
そうしているうちに僕は弁造さんのベッドの上で眠ってしまった。
うたた寝に思えたが、隣で寝ていたさくらの鳴き声で眼を覚ました時には、もう朝になっていて、外からはこの時期特有のオオジシギの激しい羽ばたき音が聞こえてきていた。
オオジシギはかつて弁造さんたちが耕した土地の上に広がる空を飛び交い、翼の音を降らせていた。そのけたたましい響きは北海道に初夏の風物詩と呼べるものだった。
その日、何もすることがなくなった僕は、弁造さんの家に別れを告げ、さくらと一緒に函館に向かった。
夜のフェリーは、暗闇の海峡を進んだ。海原はどこまでも静かで、それは数日前、弁造さんに会うために渡った海峡の気配と同じだった。
でも、きっと同じではないのだろう。眼に見える世界は同じでも、そのディティールは絶えず変化し続けている。
夜明けと同時に船は青森港に到着した。
朝靄にかすむ海に向けてシャッターを押し、12枚撮りのフィルムは8枚目だったが、フィルムを巻き取った。
今、僕の部屋には、弁造さんが遺した大量のメモやスケッチ、そして油絵がある。
これら、弁造さんの匂いのするものとどうやって向き合っていくか、今はそれをぼんやりと考え続けている。
弁造さんが生けていた桜は、岩手に来て花を開かせた。満開は明日になるだろう。

2012 遠い日のスケッチ
弁造さんの亡骸と2度の夜を過ごし、その身体を炎の奥に送り、灼熱の白骨と対面した後、2日間かけて弁造さんが暮らしていた小さな小さな丸太小屋を掃除して、一緒に弁造さんを見送った人たちに別れを告げて今回の旅が終わった。
これまでと同じように繰り返し、シャッターを押し続けた。
次第に硬く、冷たくなっていくその頬にレンズを向け、固く閉じられた瞼に並ぶ睫毛にピントを合わせ、繰り返し繰り返しシャッターを押した。
2時間たって炎の中から出てきた弁造さんの骨に対しても同じことを繰り返した。
炎のような熱を持ったその骨に向かって、「弁造さん」と呼ぶことには違和感を覚えつつも、僕には撮ることしか残されていなかった。
そして、生前の約束通り、骨を分けてもらった。
弁造さんは、スケッチブックに、「奥山淳志殿に遺骨の一部をゆずる」と記し、「一部だぞ、全部じゃないぞ。せっかくお寺さんの納骨堂を買ったんだからな。しっかり納まって元をとらにゃいかん」と言って笑っていたが、それが本当になってしまった。
「いいところをたくさんもらっていいからさ」と泣いているのか笑っているのかわからない表情で弟の正治さんが、箸を手にした僕を励ましてくれた。僕は、少し迷ったのち、白いドーム状で残った頭骨の一部を木箱に入れた。
すると、弁造さんの妹のせい子さんが、「口の骨はもらったのかい?」と言ったので、僕は、「いやいや、口の骨なんかもらったら最後、うるさくて眠られない」と返した。このやりとりで参列者は皆、大きな声を挙げて笑い、その弾んだ声は無機質な火葬場の気配を少しだけ柔らかなものにした。
宙に消える笑い声を追うように「本当に、おしゃべりな男だったなあ」と正治さんは続け、皆、言葉無く頷いた。
確かに弁造さんは本当に饒舌な人だった。僕が訪れると、待ってましたとばかりにしゃべりはじめ、それは別れの際まで続いた。
それがこうして一言も話すこともなく、乾ききった骨になってしまった。それは無に近いように思えた。
そうだ、弁造さんは、「死んだら何もない。無、ゼロの世界だ」と言っていた。
本当にあれほど存在感が無になってしまったのだろうか。
僕は改めてそのことに驚いた。人が無になるということについて。
でも、本当にそうだった。
弁造さんを炎の中に送った後、僕はすぐ建物の外に出て、煙突の先を見つめ続けた。きっと、弁造さんの存在を証明するようなしっかりとした煙が立ち上るだろうと考えたのだ。正治さんも、「煙になった兄貴を撮ってくれ」と僕の背中を押した。
でも、煙はほとんど、立ち昇らなかった。4月の淡い青の中に溶け入るかのように、おぼろげな煙が昇ったかと思うとすぐに透明になり、その先には空の青さだけがあった。
きっと、フィルムには定着できなかっただろう。
弁造さんの頭骨を納めた木箱を両手で握りながら、煙が見えなかったことを思い起こした。手には重みが感じられたが、その重さは木箱のそれで、弁造さんの存在感ではないように感じた。
それは、今まさに弁造さんはいなくなってしまった、という実感を伝えていた。
弁造さんの死について、僕は戸惑い続けた。
それが、あまりにも理不尽な死だったからだ。
92歳で寿命という年齢にあることは間違いなかったが、亡くなった直接の原因は、車にはねられた結果で寿命という言葉にあてはまるものではなかった。
弁造さんがはねられた現場にはブレーキ痕もなく、約50mに渡って、長靴や帽子がはねとんでいた。死亡が確認されたのは搬送先の病院でのことだったが、実際には即死に近い状態だったという。
こうして弁造さんが逝ったことについて、それを運命と呼んでいいのか。今の僕には判断がつかない。
でも、僕は、この死によって、弁造さんという存在を喪い、弁造さんとの時間は過去のものとなった。
弁造さんにとっては、自らの存在そのものが過去のものになった。
弁造さんは生前、買い物のレシートの裏に「何かを得て、何かを失う」と記していた。
それは「生きること」の絶対の約束だと僕も信じていた。
両手で持ち得る量は限られていて、何かを乗せれば、何かがこぼれ落ちる。
それが「生きること」の日々の本質であると、弁造さんは語り、僕は頷いた。
では、弁造さんは自らを失い、何を得たのだろうか。
弁造さんを通じて、この謎めいた「生きること」の答えを得るチャンスを失った僕は、代わりに何を得たのだろうか。
世界は弁造さんを失うことで、新しい世界を得たというのだろうか。
火葬場から再びお寺に戻り、読経を済ませた後、僕は分けてもらった骨とともに、弁造さんの丸太小屋に戻った。
ドアを開け、薪ストーブの火の消えた部屋にあがり、裸電球のスイッチを引く。その明かりに照らされたのは、実に細々とした生活の品々だった。
枕元のまわりには、なぜだかわからないけれど、メジャーが4つもあったり、石ころがあったり、小銭の入った缶や歴代の入れ歯や動かない時計や手紙やペンや途中で使うのをやめた手帖や箱に入った無数のメモや何だかよくわからない鉄クズなんかがころがっていた。それらの多くは、弁造さんしかその価値を理解できないものだった。
冷蔵庫の中では日数を経た食品がいっぱい詰まっていた。弁造さんは、賞味期限を気にしたことがない。だからなのだが、冷蔵庫の中は少しばかり異臭がした。でも、それは弁造さんの部屋の匂いと呼べるものだった。僕はそのすえた匂いをいつも懐かしい思いで嗅いできたのだ。
とりあえず、ベッド周りを掃除した。掃除が終わるまで、弁造さんの家に泊まろうと思ったからだ。
問題はベッドの大きさで、150cmほどの弁造さんの身長に合わせられたベッドで僕が寝れるのだろうかと思いながら掃除をした。
でも、実際に横になってみると、少し斜めになれば両足を伸ばしても大丈夫だった。
僕は横になりながら、テレビをつけた。弁造さんは横になりながらいつも棚の上に置いてあるテレビを見ていた。
でも、今日は、テレビとベッドの枕元を結ぶ直線上に障害物があった。
改めてその障害物を眺めた。
それは、桜の枝で、水を張ったバケツに生けられていた。
僕は、弁造さんのこうした行動をこれまで見たことはなかった。
森を育ててきた弁造さんのことだ。植物を育てることは日常の一部だった。訪ねるたびに弁造さんは僕を庭に連れて行き、「今年は、こいつを育ててるんじゃ」と、果樹や山菜の類いを見せてくれた。
でも生け花は一度も見たことがなかった。弁造さんが興味があるのは、土に根を張った植物たちで、決して自分の手のなかにある存在ではなかった。
でも、こうして弁造さんの部屋には、つぼみをたくさん付けた桜の枝が春を待っていた。
今年の北海道は、記録的な大雪で4月を迎えても寒い日が続いていた。
弁造さんは、遅い春にしびれをきらし、桜の花を咲かせてみようと思ったのだろうか。それとも誰かに咲かせた桜をあげようと思ったのだろうか。
でも、突然の死は、こんな簡単な問いをすることも許さなかった。その瞬間から先に立ち入ることを許しはしないというのが、今回の出来事だ。
結局、弁造さんの死とはそういうことだ。
これまで続けてきたプロセスを叩き切り、いきなり結果を持ち込んできた。
結果は、92歳の人生。長生きはしたが、最後は可哀想だったという人生。でも、本当に哀しいのは、結果ではない。弁造さんがプロセスを続けられなくなったことだ。
つまんないことだけど、バケツに生けた桜の枝が咲かせた花を数えたり、明後日、買い物にいくために書いていた物忘れをしないためのメモの続きを書いたり、シューシューと音を立てて走るシニアカーを充電したり、そんなどうでもいいことすら途上で終わってしまったことだ。
もちろん、絵を描くことも、木を植えることも、すべて途切れてしまった。
そんなどうしようもないことを2日間、考えながら弁造さんの部屋を掃除した。
家の中にあるものはほとんどが不要なもので、ゴミとして家の外に積み上げた。
弁造さんの家も納屋も、近いうちに解体し、更地にと戻すことが決まっている。僕ができることは、速やかに解体が進むようにするだけだ。
好天もあって、作業は思いのほか順調に進んだ。何より不要品は予想よりも少なく、5m四方程度のブルーシートで覆える程度だった。ネズミのように物を溜め込む性格の弁造さんだったが、それは見た目だけで実際は、最小限の物で92年間を生きてきたのだった。
ガランとして広くなった部屋で過ごした夜は妙な気分だった。弁造さんの家だけれどもそうではない。何かが同じで何かが違う。起きているときに見る夢といった感じだろうか。
これこそが弁造さんがいなくなった世界の印象なのかもしれないなと思ったりした。
そうしているうちに僕は弁造さんのベッドの上で眠ってしまった。
うたた寝に思えたが、隣で寝ていたさくらの鳴き声で眼を覚ました時には、もう朝になっていて、外からはこの時期特有のオオジシギの激しい羽ばたき音が聞こえてきていた。
オオジシギはかつて弁造さんたちが耕した土地の上に広がる空を飛び交い、翼の音を降らせていた。そのけたたましい響きは北海道に初夏の風物詩と呼べるものだった。
その日、何もすることがなくなった僕は、弁造さんの家に別れを告げ、さくらと一緒に函館に向かった。
夜のフェリーは、暗闇の海峡を進んだ。海原はどこまでも静かで、それは数日前、弁造さんに会うために渡った海峡の気配と同じだった。
でも、きっと同じではないのだろう。眼に見える世界は同じでも、そのディティールは絶えず変化し続けている。
夜明けと同時に船は青森港に到着した。
朝靄にかすむ海に向けてシャッターを押し、12枚撮りのフィルムは8枚目だったが、フィルムを巻き取った。
今、僕の部屋には、弁造さんが遺した大量のメモやスケッチ、そして油絵がある。
これら、弁造さんの匂いのするものとどうやって向き合っていくか、今はそれをぼんやりと考え続けている。
弁造さんが生けていた桜は、岩手に来て花を開かせた。満開は明日になるだろう。

2012 遠い日のスケッチ
春の日に
弁造さんが突然逝ってしまった。
享年92歳。覚悟はしていたけれど、それでも本当に突然、その日がやってきた。
その知らせを聞いた僕は、いつものように、これまでいくどとなく繰り返した弁造さんへの旅と変わりなく、車にカメラとフィルムとそして寝袋を積んで、犬のさくらと一緒に海峡を渡った。
夜の海はどうだっただろうか。それは過去にないほど静かに凪いでいたことをのぞけば、海峡を占める濃厚な闇も、匂い立つ潮の気配もいつもと変わりなかった。
函館から約450kmほどある弁造さんの家への道のりもいつも同じだった。海鳥の飛ぶ渚をかすめ、原野を越え、深い森を越え、街を越え、その風景の連続は、諳んじることのできる歌のように僕の眼には慣れ親しんだものだった。
でも、その先はこれまで一度も経験したことのないものだった。
僕の到着を待っていてくれたのは、一言も話さず、冷たい頬をした弁造さんだったからだ。
納棺が済んだばかりの弁造さんは、今までに見た事が無い立派な服をきて、どこか神妙な顔をして、瞳を閉じて眠っていた。
枕も真っ白で、布団も空気のように軽そうで、それらのディティールのすべてが僕が知る弁造さんには何ひとつあてはまらなかった。
でも、弁造さんが逝ってしまったことが受け入れられないということではない。
僕は現実主義者だ。どのような願いや思いより現実は強いと信じている。
今も目の前に弁造さんが眠っているけれど、それは僕が見たことがない弁造さんではあるけれど、弁造さんであることを僕は受け入れている。
逝ってしまった弁造さんと会う。僕にとっては、ただそれが慣れていないだけだ。
函館からずっと、弁造さんのことを考えていた。
弁造さんとはじめて出会った日のこと。そのとき、弁造さんはまだ78歳だったこと。
それからずっと延々と僕のカメラの前に立ち、下手くそな写真を量産する手伝いをしてくれたこと。
そして、いつしか、僕が写真を続ける最も大きな理由になってくれたこと。
そこで改めて考えたのは、一体、なぜ、僕は弁造さんを撮り続けようと思ったかについて。
一番最初は弁造さんの作ってきた自給自足の生活だった。森を育て、畑を耕し、自分の手で建てた家で暮らす。
当時の僕にとってはそれが眩しく見えた。でも、それが撮り続けてきた理由にはならなかった。
生き方のディティールについては、時代やその人が置かれた環境、いろいろな要素が絡み合って生まれると思う。
弁造さんの自給自足はいつだって素敵だけれど、いくつもの条件が合わさった結果のひとつに過ぎないと思うようになった。
その代わり、強烈に立ち上がってきたのが、「生きる」という単純だけれども、底の見えない行為だ。
絵を描くことを愛し、ユーモアと工夫で、一人、飄々と生きる弁造さんは、本当に格好よく見えた。
ただ、それも撮り続ける理由のすべてではなかったように思う。
理由は、「生きる」ということが弁造さんだけの創造物ではないと知っていたからだ。
弁造さんの生き方は、簡単に真似ができるものではないけれど、乱暴に言ってしまえば、自給自足生活と同じようなもので、それもまた、弁造さんを取り巻いてきた環境や時代の結果なのだろうと思う。
では、僕は何を撮ってきたのだろうか。
思えば、僕は弁造さんに対し、撮るべき理由をずっと探していた。いや撮ることには理由は必要がなかった。ただ弁造さんにカメラを向け、撮り続けたかった。探していたのは、撮影行為を一人立ちさせる理由だ。
でも、撮影を続ければ続けるほど、明確な答えからは遠のいていった。
写真展をしたり、雑誌に発表したりしながら、何度も写真を構成し、言葉を仕立ててきかたが、曖昧さばかりが浮き立ってみえた。
そうして僕がまごまごしているうちに弁造さんは逝ってしまった。
にもかかわらず、こうして、僕はなお、弁造さんを撮り続ける理由を探そうとしている。
本当に、僕は弁造さんに何を見ようと思ったのだろうか。
今日、それをずっと考えてきて、頭に浮かんできたのは「生きることの謎」という言葉だ。
稚拙な言葉で自分でも呆れ返ってしまうが、今の僕にはほかに代わる言葉が見つからない。
僕にとっては生きることは当たり前であるけれど、もう一方で不可思議なことだ。
生まれ、生き、死んでいく。どのような生物に繰り返される営みには違いないが、そこには、言葉では語り尽くせない曖昧で不条理な出来事が連続して現れ、僕たちはそれを受け止めるるしかない。そのなかでしか生きれない不思議、そして謎。そうしたものが確かにあると思える。
ただ、そう感じるのは、僕自身が「生きること」のディティールのひとつだからだろうか。
遠視するように考えてしまえば、僕たちの生きることは、右に行こうが左に行こうが、どっちでも構わない。
きっと生命は、僕たち個々にはほとんど興味はない。
それでも、僕たちひとりひとりは、無尽蔵にある「生きること」のディティールのひとつに過ぎない。そのディティールを見つめることが僕たちの「生きること」の視点だと思う。
ただ、そうはいっても、それは津軽の版画家のように対象に眼をすりつけるほどに近づけてはじめて見えてくるディティールだろう。
それでも、見つめていくと、それぞれのディティールが持つ多様な色彩のグラデーションと陰影の深さに気づくだろう。
僕たちは皆、その色と光、そして陰に染め抜かれている。
僕にとっては、その色と光、そして陰こそが謎だった。なぜ、こうして僕たちは、「生きること」の不思議な色と光、そして陰をまとうのだろうかと。
その謎を解き明かすことはできないか。この謎解きの伴走者が弁造さんだった。
弁造さんは、自らのこれまでの人生を僕に語り尽くし、そして新たに迎え入れる人生を露にしてくれた。
弁造さんの新しい人生とは、「老い」というもので、ほろ苦い以上のものだった。
これまで当たり前にやっていたことができなくなり、自らを取り巻く世界が次第に小さくなっていくなかで、弁造さんの精神もある意味、やせ細っていった部分もあった。
それでも、弁造さんは老いと向き合い続けた。
僕はもしかしたら、「生きることの謎」が解ける間近までいけたのかもしれない。
弁造さんがもう少し生き、老いの極みのなかで、その極点に立ち会えたなら、僕はずっと探していた答えを見つけられたかもしれない。
でも、弁造さんは、伴走をやめてしまった。
ふいに、何の知らせもなく、一人、逝ってしまった。
これもまた、生きることの不思議な色と光なのだろうか。
春になったら納屋の棟木を修繕する、旧友の墓参りをする、来年の薪を準備する、部屋をきれいにして弁造さんの部屋で一緒に眠る(これまでずっと僕は弁造さんを訪ねると車で寝ていた)、絵を描く、ほかにもいくつもあった約束を反古にして逝ってしまう。
生きることは、予定や計画とは全く別ものであること。
確かにそうなのだろうけれど、運命と生きることは同義語なのだろうか。
結局、すべての色彩を貫き、光と陰をない交ぜにしてしまうのは、運命的な出来事なのだろうか。
生きることは、すべて出来事の積み重ねだ。でも、そのひとつひとつを束ねるのは、抗いようのない強力な力なのだろうか。
この力に抗いたいと思う僕は、弁造さんを喪い、最後の最後で「生きること」の謎解きに失敗したということなのだろうか。
14年もかけたのに、ここまで来て失敗してしまったのだろうか。
伴走者を喪ったのに、それでも振り出しに戻って、一から走れということなのだろうか。
それとも、生きることのディティールのひとつでしかない僕にそもそもそんな謎解きができるはずはなかったのだろうか。
自分の寝顔を決して見ることができないように、今を生きている僕は、生きることの真実などを見ることができないのかもしれない。
そういうことだったのだろうか。
ずっとカメラと一緒に生きていくと思ってきた。今もその気持ちは変わらないし、変えたくはない。
でも、弁造さんが逝ったことで気づいたのは、写真を続けていく大きな理由をひとつ失ったということだ。
今は、その敗北感を受け入れるしかないということなのだろうか。
弁造さん、本当に今までありがとうございました。
僕は弁造さんと出会って本当に幸せでした。

2012 若き日のこと
享年92歳。覚悟はしていたけれど、それでも本当に突然、その日がやってきた。
その知らせを聞いた僕は、いつものように、これまでいくどとなく繰り返した弁造さんへの旅と変わりなく、車にカメラとフィルムとそして寝袋を積んで、犬のさくらと一緒に海峡を渡った。
夜の海はどうだっただろうか。それは過去にないほど静かに凪いでいたことをのぞけば、海峡を占める濃厚な闇も、匂い立つ潮の気配もいつもと変わりなかった。
函館から約450kmほどある弁造さんの家への道のりもいつも同じだった。海鳥の飛ぶ渚をかすめ、原野を越え、深い森を越え、街を越え、その風景の連続は、諳んじることのできる歌のように僕の眼には慣れ親しんだものだった。
でも、その先はこれまで一度も経験したことのないものだった。
僕の到着を待っていてくれたのは、一言も話さず、冷たい頬をした弁造さんだったからだ。
納棺が済んだばかりの弁造さんは、今までに見た事が無い立派な服をきて、どこか神妙な顔をして、瞳を閉じて眠っていた。
枕も真っ白で、布団も空気のように軽そうで、それらのディティールのすべてが僕が知る弁造さんには何ひとつあてはまらなかった。
でも、弁造さんが逝ってしまったことが受け入れられないということではない。
僕は現実主義者だ。どのような願いや思いより現実は強いと信じている。
今も目の前に弁造さんが眠っているけれど、それは僕が見たことがない弁造さんではあるけれど、弁造さんであることを僕は受け入れている。
逝ってしまった弁造さんと会う。僕にとっては、ただそれが慣れていないだけだ。
函館からずっと、弁造さんのことを考えていた。
弁造さんとはじめて出会った日のこと。そのとき、弁造さんはまだ78歳だったこと。
それからずっと延々と僕のカメラの前に立ち、下手くそな写真を量産する手伝いをしてくれたこと。
そして、いつしか、僕が写真を続ける最も大きな理由になってくれたこと。
そこで改めて考えたのは、一体、なぜ、僕は弁造さんを撮り続けようと思ったかについて。
一番最初は弁造さんの作ってきた自給自足の生活だった。森を育て、畑を耕し、自分の手で建てた家で暮らす。
当時の僕にとってはそれが眩しく見えた。でも、それが撮り続けてきた理由にはならなかった。
生き方のディティールについては、時代やその人が置かれた環境、いろいろな要素が絡み合って生まれると思う。
弁造さんの自給自足はいつだって素敵だけれど、いくつもの条件が合わさった結果のひとつに過ぎないと思うようになった。
その代わり、強烈に立ち上がってきたのが、「生きる」という単純だけれども、底の見えない行為だ。
絵を描くことを愛し、ユーモアと工夫で、一人、飄々と生きる弁造さんは、本当に格好よく見えた。
ただ、それも撮り続ける理由のすべてではなかったように思う。
理由は、「生きる」ということが弁造さんだけの創造物ではないと知っていたからだ。
弁造さんの生き方は、簡単に真似ができるものではないけれど、乱暴に言ってしまえば、自給自足生活と同じようなもので、それもまた、弁造さんを取り巻いてきた環境や時代の結果なのだろうと思う。
では、僕は何を撮ってきたのだろうか。
思えば、僕は弁造さんに対し、撮るべき理由をずっと探していた。いや撮ることには理由は必要がなかった。ただ弁造さんにカメラを向け、撮り続けたかった。探していたのは、撮影行為を一人立ちさせる理由だ。
でも、撮影を続ければ続けるほど、明確な答えからは遠のいていった。
写真展をしたり、雑誌に発表したりしながら、何度も写真を構成し、言葉を仕立ててきかたが、曖昧さばかりが浮き立ってみえた。
そうして僕がまごまごしているうちに弁造さんは逝ってしまった。
にもかかわらず、こうして、僕はなお、弁造さんを撮り続ける理由を探そうとしている。
本当に、僕は弁造さんに何を見ようと思ったのだろうか。
今日、それをずっと考えてきて、頭に浮かんできたのは「生きることの謎」という言葉だ。
稚拙な言葉で自分でも呆れ返ってしまうが、今の僕にはほかに代わる言葉が見つからない。
僕にとっては生きることは当たり前であるけれど、もう一方で不可思議なことだ。
生まれ、生き、死んでいく。どのような生物に繰り返される営みには違いないが、そこには、言葉では語り尽くせない曖昧で不条理な出来事が連続して現れ、僕たちはそれを受け止めるるしかない。そのなかでしか生きれない不思議、そして謎。そうしたものが確かにあると思える。
ただ、そう感じるのは、僕自身が「生きること」のディティールのひとつだからだろうか。
遠視するように考えてしまえば、僕たちの生きることは、右に行こうが左に行こうが、どっちでも構わない。
きっと生命は、僕たち個々にはほとんど興味はない。
それでも、僕たちひとりひとりは、無尽蔵にある「生きること」のディティールのひとつに過ぎない。そのディティールを見つめることが僕たちの「生きること」の視点だと思う。
ただ、そうはいっても、それは津軽の版画家のように対象に眼をすりつけるほどに近づけてはじめて見えてくるディティールだろう。
それでも、見つめていくと、それぞれのディティールが持つ多様な色彩のグラデーションと陰影の深さに気づくだろう。
僕たちは皆、その色と光、そして陰に染め抜かれている。
僕にとっては、その色と光、そして陰こそが謎だった。なぜ、こうして僕たちは、「生きること」の不思議な色と光、そして陰をまとうのだろうかと。
その謎を解き明かすことはできないか。この謎解きの伴走者が弁造さんだった。
弁造さんは、自らのこれまでの人生を僕に語り尽くし、そして新たに迎え入れる人生を露にしてくれた。
弁造さんの新しい人生とは、「老い」というもので、ほろ苦い以上のものだった。
これまで当たり前にやっていたことができなくなり、自らを取り巻く世界が次第に小さくなっていくなかで、弁造さんの精神もある意味、やせ細っていった部分もあった。
それでも、弁造さんは老いと向き合い続けた。
僕はもしかしたら、「生きることの謎」が解ける間近までいけたのかもしれない。
弁造さんがもう少し生き、老いの極みのなかで、その極点に立ち会えたなら、僕はずっと探していた答えを見つけられたかもしれない。
でも、弁造さんは、伴走をやめてしまった。
ふいに、何の知らせもなく、一人、逝ってしまった。
これもまた、生きることの不思議な色と光なのだろうか。
春になったら納屋の棟木を修繕する、旧友の墓参りをする、来年の薪を準備する、部屋をきれいにして弁造さんの部屋で一緒に眠る(これまでずっと僕は弁造さんを訪ねると車で寝ていた)、絵を描く、ほかにもいくつもあった約束を反古にして逝ってしまう。
生きることは、予定や計画とは全く別ものであること。
確かにそうなのだろうけれど、運命と生きることは同義語なのだろうか。
結局、すべての色彩を貫き、光と陰をない交ぜにしてしまうのは、運命的な出来事なのだろうか。
生きることは、すべて出来事の積み重ねだ。でも、そのひとつひとつを束ねるのは、抗いようのない強力な力なのだろうか。
この力に抗いたいと思う僕は、弁造さんを喪い、最後の最後で「生きること」の謎解きに失敗したということなのだろうか。
14年もかけたのに、ここまで来て失敗してしまったのだろうか。
伴走者を喪ったのに、それでも振り出しに戻って、一から走れということなのだろうか。
それとも、生きることのディティールのひとつでしかない僕にそもそもそんな謎解きができるはずはなかったのだろうか。
自分の寝顔を決して見ることができないように、今を生きている僕は、生きることの真実などを見ることができないのかもしれない。
そういうことだったのだろうか。
ずっとカメラと一緒に生きていくと思ってきた。今もその気持ちは変わらないし、変えたくはない。
でも、弁造さんが逝ったことで気づいたのは、写真を続けていく大きな理由をひとつ失ったということだ。
今は、その敗北感を受け入れるしかないということなのだろうか。
弁造さん、本当に今までありがとうございました。
僕は弁造さんと出会って本当に幸せでした。

2012 若き日のこと
ポートレート撮影会
今年の1月に盛岡の唐たけし冩場という、すでに写真館としての役割を終えたスタジオをお借りして、ポートレート撮影会を行った。
このときの模様は、こちら(http://blog.iwatesan.com/fudo/2012/01/20/写真を撮ること/)に書いたので割愛するが、5月に行われる盛岡のミニコミ誌「てくり」が行う「モリブロ」というイベントで、再びポートレート撮影会を行うことになった。
撮影場所は、盛岡市にある岩手県公会堂。大正時代に建てられたとても立派でモダンな建築物で、盛岡のランドマークとも言える存在だ。
この建物の一室を借りきって撮影するのだが、今回も前回の唐たけし寫場に引き続き、愛機のローライフレックスを使って撮影し、銀塩モノクロプリントを仕上げることになった。
最近、とくに盛岡ではフィルムで撮影している現場は本当に少なくなってしまった。
撮影が少ないのだから暗室を持ち、現像やプリントを手掛ける人間はごくわずかだ。
僕もその一人といえるのだが、写真を撮る上で、デジタルかフィルムかと問われたら迷うことなくフィルムを選択する。
デジタルにはデジタルの良さがあることはわかるのだが、フィルムには、デジタルにはない魅力が深く湛えられていると思う。
オリジナルとしての存在感、印画紙の質感、中判、大判といくつもあるフォーマットを選択できることなど、その魅力はいくつもあげられるのだが、僕が一番強く感じ魅力は、デジタルとは違った「今」という時間の閉じ込め方だ。
それはフィルムならではの「今」の佇まいといっていい。
フィルム写真の中にある時間はいつもどこまでも静かにゆらぎ、それは深い入り江に漂うかすかなかすかな波のの動きにも似ている。
とくにモノクロームの写真ではその静けさが増し、透明度も増していくように感じる。
普段、僕はモノクローム写真を手がけることは少ない。
本当は、モノクロームによる作品作りがしたくてしたくてしょうがないのだけれど、自戒している。理由は、カラー写真の溢れ出す猥雑ともいえる「今」の気配、コントロールできない「同時代性」というものをつくっていきたいと考えているからだ。
僕にとって写真は「今」と同義だ。そして「今」とはどうにも捉え難い性格だ。この捉え難さを表現するには、やはりモノクロよりもカラーだと感じる。
でも、だからこそ、モノクロの静謐でコントロールされた世界にあこがれる。
なので、こういう機会があると俄然張り切ってしまう。
前回も2日の撮影だったが、その後の暗室作業には約5日ほどかけた。大変な作業でもあるが、カメラの前に立ってくれた人の「今」との再会は、幸福とも言える時間だった。
公会堂の撮影会は、5月の12日と13日。今回はどのような人の「今」と出会えることができるのだろうか。それが今からとても楽しみだ。
撮影会の概要は以下のウエブサイトをご参考にしてください。
http://moriburo2012.blog.fc2.com/
http://moriburo2012.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
なお、撮影料およびプリント料金は、合計で6000円。ベタプリントと11×14インチのプリント1枚となっています。
また、予約優先となっておりますので、予約をしていただけると幸いです。

2010 鹿踊り
このときの模様は、こちら(http://blog.iwatesan.com/fudo/2012/01/20/写真を撮ること/)に書いたので割愛するが、5月に行われる盛岡のミニコミ誌「てくり」が行う「モリブロ」というイベントで、再びポートレート撮影会を行うことになった。
撮影場所は、盛岡市にある岩手県公会堂。大正時代に建てられたとても立派でモダンな建築物で、盛岡のランドマークとも言える存在だ。
この建物の一室を借りきって撮影するのだが、今回も前回の唐たけし寫場に引き続き、愛機のローライフレックスを使って撮影し、銀塩モノクロプリントを仕上げることになった。
最近、とくに盛岡ではフィルムで撮影している現場は本当に少なくなってしまった。
撮影が少ないのだから暗室を持ち、現像やプリントを手掛ける人間はごくわずかだ。
僕もその一人といえるのだが、写真を撮る上で、デジタルかフィルムかと問われたら迷うことなくフィルムを選択する。
デジタルにはデジタルの良さがあることはわかるのだが、フィルムには、デジタルにはない魅力が深く湛えられていると思う。
オリジナルとしての存在感、印画紙の質感、中判、大判といくつもあるフォーマットを選択できることなど、その魅力はいくつもあげられるのだが、僕が一番強く感じ魅力は、デジタルとは違った「今」という時間の閉じ込め方だ。
それはフィルムならではの「今」の佇まいといっていい。
フィルム写真の中にある時間はいつもどこまでも静かにゆらぎ、それは深い入り江に漂うかすかなかすかな波のの動きにも似ている。
とくにモノクロームの写真ではその静けさが増し、透明度も増していくように感じる。
普段、僕はモノクローム写真を手がけることは少ない。
本当は、モノクロームによる作品作りがしたくてしたくてしょうがないのだけれど、自戒している。理由は、カラー写真の溢れ出す猥雑ともいえる「今」の気配、コントロールできない「同時代性」というものをつくっていきたいと考えているからだ。
僕にとって写真は「今」と同義だ。そして「今」とはどうにも捉え難い性格だ。この捉え難さを表現するには、やはりモノクロよりもカラーだと感じる。
でも、だからこそ、モノクロの静謐でコントロールされた世界にあこがれる。
なので、こういう機会があると俄然張り切ってしまう。
前回も2日の撮影だったが、その後の暗室作業には約5日ほどかけた。大変な作業でもあるが、カメラの前に立ってくれた人の「今」との再会は、幸福とも言える時間だった。
公会堂の撮影会は、5月の12日と13日。今回はどのような人の「今」と出会えることができるのだろうか。それが今からとても楽しみだ。
撮影会の概要は以下のウエブサイトをご参考にしてください。
http://moriburo2012.blog.fc2.com/
http://moriburo2012.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
なお、撮影料およびプリント料金は、合計で6000円。ベタプリントと11×14インチのプリント1枚となっています。
また、予約優先となっておりますので、予約をしていただけると幸いです。

2010 鹿踊り
弁少年の記憶
弁造さんを訪れている。
秋以来のことだ。
今年の北海道は報道通りの大雪。新十津川の弁造さんのところでも例外ではなく、弁造さんの小さな丸太小屋は深い雪に埋もれていた。
とはいっても、働き者の弁造さんのこと。丸太小屋の周りは、周辺のどの家よりも美しく雪かきされている。
その几帳面な仕事ぶりは雪を整理整頓したかのようだ。
今回の訪問の目的は、まず屋根の雪下ろしをすることだった。
今年で92歳になろうとする弁造さんは昨年頃より、さすがに屋根に登っての雪下ろしは困難になっていた。
それで今年は専門業者に依頼し、1度下ろしてもらったそうだ。しかし、たび重なる大雪で業者のスケジュールがパンクし、その後は来てもらえないという状況が続いてた。
自宅となる丸太小屋だけなら、そのサイズから地面に雪を積んで、その上に登って、下から雪べらで少しづつ突っつていて、落雪を促してということもできるのだが、丸太小屋の後ろにある大きな納屋はそうはいかない。棟高もあるし、奥行きも丸太小屋の2倍以上あるため、どうしても屋根に登って雪を下ろす必要があったのだ。
僕がこの納屋の上に登るのは、もう3年ぶりになるだろうか。
そのときは、弁造さんが屋根の上で雪かきをする姿を撮りながら、いたずら程度に手伝うというものだった。
でも、今回は、屋根に上がるのは僕で、弁造さんは下にいて僕が下ろした雪を除雪機ではねるという段取りで作業を進めた。
半日ほどかけると、納屋も丸太小屋も大きな荷物を下ろしたかのようなさっぱりした表情になった。
弁造さんは二つの屋根を眺め、「ああ、これで春の大雪が来ても大丈夫だ。もう春を待つだけじゃな」と笑った。
気温はマイナスだったが、陽光はどこか暖かみがあって、確かに弁造さんの言葉通り、春の予感が感じられた。
あとは、町に買い物に行ったり、絵を描いたり、昔話をしたりという、いつもと同じときを過ごした。
昨年の秋に来たときに割った薪で部屋はぽかぽかと暖かく、本当に気持ちよく僕は何度となく欠伸をした。
そんな僕を前に、弁造さんは一生懸命、子供時代や青年時代の昔話をした。
可愛がっていた黒犬がいたが、ある日、家に遊びにきたお客さんについていったかと思うと、それきり帰ってこなくなり、次にそのお客さんを見かけると、黒い毛皮のチョッキを着ていたという話や、冬になると石狩川に柳の枝を束にしたものを並べ、雪と水をかけると凍って橋になり、その上を馬橇が歩いた話や、あまりに瘠せた土地に入植したため、作物が実らず、酪農に切り替えようと牛を飼ったが、知識不足から死なせてしまい途方に暮れていたところ、それを見かねた親切な酪農家が無償で牛を譲ってくれた話など…。
こうした開拓時代の香りがする弁造さんの昔話は薪ストーブの暖と同じように本当に心休まるものだった。
僕は、弁造さんの昔話を聞くのが本当に大好きだ。
いくら92歳といえども、思い出の数が増えるということはない。これまでの10年以上に渡る付き合いの中で、そのほとんどは聞いたといってもいいだろう。
だから、今となって新しい話を聞くことはほとんどないどころか、本当に何回聞いたかわからない話も多い。
それでも弁造さんは、とっておきの話を話してやろうという顔で楽しげに話し、僕も初めて聞くといった顔でうんうんと聞く。
夜、布団の中に入り、おじいさんに同じ話を繰り返しせがむ幼子のようなものである。
なぜ、弁造さんの昔話を聞いていて心地いいのだろうか。
それは、話に温度があるからだと思う。
開拓時代の北海道で人がどうにかこうにか生きていた時代の熱といえばいいだろうか。
その人間臭い熱が弁造さんを通して、僕にぬくもりにも似た温度として伝えられるのだ。
温度とは、人の吐く息や肌に触れたときに立ち上ってくる感覚といえばいいだろうか。
僕が好きな話で、ウサギの子供をもらいに行ったというエピソードがある。
以前、ここでもちらっと書いたように思うのだが、弁造さんがまだ尋常小学校の2年生頃の話だ。
弁造さんの友人の家でウサギが子供を生み、弁造さんはそれを見に行った。
箱に入れられたウサギの子供はふわふわの綿毛に包まれ、本当にかわいかった。
かわいいかわいいと弁造さんが触っていると、「弁、一羽、持っていってもいいぞ」という話になった。
大喜びした弁造さんは、小さなウサギを着物の胸のなかにいれ、家路についた。
ところが外は猛吹雪、ウサギを凍らせてはなるまいと両手で胸を抑え、必死で暖めながら、雪をかきわけていった。
とのときの気温はおそらく零下10度以下だっただろう。
それでも何とか家にたどり着き、ウサギを兄弟たちに見せびらかしたりした後は、林檎箱に入れて寝た。
明くる朝、ウサギの子を見ようと箱を開けてみると、そこに姿はなかった。ウサギは夜のうちに逃げ出してしまったのだ。
話はただこれだけのことだ。
ウサギをもらいにいって、吹雪の中を歩いて家に帰り、夜が明けたら逃げていた。一行で事足りる話。昔話特有の訓示のようなものは何もない。
でも、僕にはそれで十分だ。
ふわふわと柔らかなウサギの綿毛、雪原を真横に走る猛吹雪、その雪原につけられては消える弁少年の小さな足跡、雪を一生懸命かきわける際に漏れる真っ白な吐息、そして朝、箱を開けてウサギを見ようとし、姿がいないことに気づいたときの呆気にとられた弁少年の表情。
想像しうるすべてのシーンに体温のようなものが宿っているように思える。
その体温を感じるだけで僕はとても心地よい気分になれる。
今回、弁造さんの家に入り、まず見たのはイーゼルにかけられた制作途中の油絵だ。
これは弁造さんが夢に見た風景を描いているものだが、2年前に体力を落として以来、その進みは遅々としたものだった。
今回も前回訪れたときからほとんど進んでいないように見え、「弁造さん、進んでないじゃないですか」と僕が言うと、弁造さんは「ほら」と指さした。
キャンバスの隅の方、弁造さんが指差した先には、まだ描かれたばかりの白いフクロウがいた。
でも、これだけではなかった。
イーゼルの周りには、包装紙に描かれた3枚ほどのデッサンが落ちていた。
それは犬を抱く子供の姿だった。
昨年の冬のことになろうか。
石狩川の河原に車が転落し、氷点下の中、犬を抱いて一命をとりとめたという祖父と孫娘が話題になった。
弁造さんも地元で起きた事故だから関心を持っていたようで、電話で話したときには「あの子供を守った犬、ジュニアって名じゃそうじゃ。すごい犬じゃなあ。いやあよかったよかった」と喜んでいた。
その後も弁造さんは、このジュニアと子供のことが気になってしょうがなかったのだろう。
こうして二人の姿を絵にしていたのだ。
捨てられそうな小さな紙に描かれたデッサンはとても素敵なものだった。
間違いなく、そこにいる犬にも子供にも体温があり、僕に不思議な温もりを伝えてくれていた。
弁造さんに会いに行く理由のひとつは、弁造さんだけが持つ温度のようなものを感じるためなのかもしれない。

ジュニアとの夜 2012
秋以来のことだ。
今年の北海道は報道通りの大雪。新十津川の弁造さんのところでも例外ではなく、弁造さんの小さな丸太小屋は深い雪に埋もれていた。
とはいっても、働き者の弁造さんのこと。丸太小屋の周りは、周辺のどの家よりも美しく雪かきされている。
その几帳面な仕事ぶりは雪を整理整頓したかのようだ。
今回の訪問の目的は、まず屋根の雪下ろしをすることだった。
今年で92歳になろうとする弁造さんは昨年頃より、さすがに屋根に登っての雪下ろしは困難になっていた。
それで今年は専門業者に依頼し、1度下ろしてもらったそうだ。しかし、たび重なる大雪で業者のスケジュールがパンクし、その後は来てもらえないという状況が続いてた。
自宅となる丸太小屋だけなら、そのサイズから地面に雪を積んで、その上に登って、下から雪べらで少しづつ突っつていて、落雪を促してということもできるのだが、丸太小屋の後ろにある大きな納屋はそうはいかない。棟高もあるし、奥行きも丸太小屋の2倍以上あるため、どうしても屋根に登って雪を下ろす必要があったのだ。
僕がこの納屋の上に登るのは、もう3年ぶりになるだろうか。
そのときは、弁造さんが屋根の上で雪かきをする姿を撮りながら、いたずら程度に手伝うというものだった。
でも、今回は、屋根に上がるのは僕で、弁造さんは下にいて僕が下ろした雪を除雪機ではねるという段取りで作業を進めた。
半日ほどかけると、納屋も丸太小屋も大きな荷物を下ろしたかのようなさっぱりした表情になった。
弁造さんは二つの屋根を眺め、「ああ、これで春の大雪が来ても大丈夫だ。もう春を待つだけじゃな」と笑った。
気温はマイナスだったが、陽光はどこか暖かみがあって、確かに弁造さんの言葉通り、春の予感が感じられた。
あとは、町に買い物に行ったり、絵を描いたり、昔話をしたりという、いつもと同じときを過ごした。
昨年の秋に来たときに割った薪で部屋はぽかぽかと暖かく、本当に気持ちよく僕は何度となく欠伸をした。
そんな僕を前に、弁造さんは一生懸命、子供時代や青年時代の昔話をした。
可愛がっていた黒犬がいたが、ある日、家に遊びにきたお客さんについていったかと思うと、それきり帰ってこなくなり、次にそのお客さんを見かけると、黒い毛皮のチョッキを着ていたという話や、冬になると石狩川に柳の枝を束にしたものを並べ、雪と水をかけると凍って橋になり、その上を馬橇が歩いた話や、あまりに瘠せた土地に入植したため、作物が実らず、酪農に切り替えようと牛を飼ったが、知識不足から死なせてしまい途方に暮れていたところ、それを見かねた親切な酪農家が無償で牛を譲ってくれた話など…。
こうした開拓時代の香りがする弁造さんの昔話は薪ストーブの暖と同じように本当に心休まるものだった。
僕は、弁造さんの昔話を聞くのが本当に大好きだ。
いくら92歳といえども、思い出の数が増えるということはない。これまでの10年以上に渡る付き合いの中で、そのほとんどは聞いたといってもいいだろう。
だから、今となって新しい話を聞くことはほとんどないどころか、本当に何回聞いたかわからない話も多い。
それでも弁造さんは、とっておきの話を話してやろうという顔で楽しげに話し、僕も初めて聞くといった顔でうんうんと聞く。
夜、布団の中に入り、おじいさんに同じ話を繰り返しせがむ幼子のようなものである。
なぜ、弁造さんの昔話を聞いていて心地いいのだろうか。
それは、話に温度があるからだと思う。
開拓時代の北海道で人がどうにかこうにか生きていた時代の熱といえばいいだろうか。
その人間臭い熱が弁造さんを通して、僕にぬくもりにも似た温度として伝えられるのだ。
温度とは、人の吐く息や肌に触れたときに立ち上ってくる感覚といえばいいだろうか。
僕が好きな話で、ウサギの子供をもらいに行ったというエピソードがある。
以前、ここでもちらっと書いたように思うのだが、弁造さんがまだ尋常小学校の2年生頃の話だ。
弁造さんの友人の家でウサギが子供を生み、弁造さんはそれを見に行った。
箱に入れられたウサギの子供はふわふわの綿毛に包まれ、本当にかわいかった。
かわいいかわいいと弁造さんが触っていると、「弁、一羽、持っていってもいいぞ」という話になった。
大喜びした弁造さんは、小さなウサギを着物の胸のなかにいれ、家路についた。
ところが外は猛吹雪、ウサギを凍らせてはなるまいと両手で胸を抑え、必死で暖めながら、雪をかきわけていった。
とのときの気温はおそらく零下10度以下だっただろう。
それでも何とか家にたどり着き、ウサギを兄弟たちに見せびらかしたりした後は、林檎箱に入れて寝た。
明くる朝、ウサギの子を見ようと箱を開けてみると、そこに姿はなかった。ウサギは夜のうちに逃げ出してしまったのだ。
話はただこれだけのことだ。
ウサギをもらいにいって、吹雪の中を歩いて家に帰り、夜が明けたら逃げていた。一行で事足りる話。昔話特有の訓示のようなものは何もない。
でも、僕にはそれで十分だ。
ふわふわと柔らかなウサギの綿毛、雪原を真横に走る猛吹雪、その雪原につけられては消える弁少年の小さな足跡、雪を一生懸命かきわける際に漏れる真っ白な吐息、そして朝、箱を開けてウサギを見ようとし、姿がいないことに気づいたときの呆気にとられた弁少年の表情。
想像しうるすべてのシーンに体温のようなものが宿っているように思える。
その体温を感じるだけで僕はとても心地よい気分になれる。
今回、弁造さんの家に入り、まず見たのはイーゼルにかけられた制作途中の油絵だ。
これは弁造さんが夢に見た風景を描いているものだが、2年前に体力を落として以来、その進みは遅々としたものだった。
今回も前回訪れたときからほとんど進んでいないように見え、「弁造さん、進んでないじゃないですか」と僕が言うと、弁造さんは「ほら」と指さした。
キャンバスの隅の方、弁造さんが指差した先には、まだ描かれたばかりの白いフクロウがいた。
でも、これだけではなかった。
イーゼルの周りには、包装紙に描かれた3枚ほどのデッサンが落ちていた。
それは犬を抱く子供の姿だった。
昨年の冬のことになろうか。
石狩川の河原に車が転落し、氷点下の中、犬を抱いて一命をとりとめたという祖父と孫娘が話題になった。
弁造さんも地元で起きた事故だから関心を持っていたようで、電話で話したときには「あの子供を守った犬、ジュニアって名じゃそうじゃ。すごい犬じゃなあ。いやあよかったよかった」と喜んでいた。
その後も弁造さんは、このジュニアと子供のことが気になってしょうがなかったのだろう。
こうして二人の姿を絵にしていたのだ。
捨てられそうな小さな紙に描かれたデッサンはとても素敵なものだった。
間違いなく、そこにいる犬にも子供にも体温があり、僕に不思議な温もりを伝えてくれていた。
弁造さんに会いに行く理由のひとつは、弁造さんだけが持つ温度のようなものを感じるためなのかもしれない。

ジュニアとの夜 2012
境界線
少し前の話になるが、年末、日本海の海辺にハタハタを見に行った。
ハタハタはいわずとしれた冬の日本海を代表する味覚なのだが、昨年、僕も魅了されることとなった。
もちろん、その深い滋味に感激したことはいうまでもないが、それ以上に心を揺さぶられたのは、「ハタハタ」と彼の地に暮らす「人」との関係だ。
「自然の恵み」
僕たちは日常のなかで簡単にこの言葉を使ったりする。
しかし、本当の自然の恵みとはいかなるものか。そんなことはいつもおかまいなしだ。
自然の中で採れたもの。自然の中で育てたもの。そんなものであれば、「自然の恵み」と僕は言ってきた。
ハタハタに出会うまで、ここに何の疑問も感じなかった。
でも今は違う。
「自然の恵み」とは、僕たちの存在を語る上でとても大切な、大きな言葉だと思っている。
過去にもこの場所 http://atsushi-okuyama.blog.so-net.ne.jp/archive/201012-1 で書いたので詳細は省くが、ハタハタのハタハタたる所以は、12月のある時期、突然、産卵のために浜に寄せることだろう。
約2週間。ハタハタを目にすることができるのはこの期間だけだ。それ以外の時期は深海に暮らすため、その存在は無に等しい。
つまり、今まで毎日海に出て漁をしていても見ることがなかった魚が、冬のある時期、それも大荒れの海のなかかやってきて、冬を生き抜く大切な糧となってくれるのだ。
さきほど「深海に暮らす」と書いたが、それは今の僕たちが知ることにすぎない。
大昔、遠い祖先たちはハタハタが普段どこに住んでいるかなんてことは知らなかった。いや、もしかしたら想像すらしなかったのかもしれない。
「冬となり、荒れ海原の先からやってきてくれるハタハタ」。この存在が大切であって、ハタハタが暮らす場所は神秘であり続けたはずだ。だからこそ、ハタハタは、神の魚「鰰」と書くのだろう。
そして、こうした「捕るもの、捕られるもの」の自然観は、自然の中で暮らす人間にとっては、ごく当たり前の感覚だったのだろう。
たとえば、北海道の地に生きるアイヌ。彼らの重要な祭祀に「イオマンテ」と呼ばれるものがあるという。
これは「熊祭り」ともいわれ、猟を通じて捕まえた子熊をある一定期間育てたのち、神の国に送ってやるという儀式だ。「送る」とはつまり「殺し」そして「食べる」というものだ。
アイヌの自然観のなかでは、熊は神である。しかし、熊の肉体はあくまで肉体であって、魂が神である。そこで、イオマンテでは、熊を大切に屠り、肉体は人の世界に置いていってもらうように祈り、魂は神の国に送ってやるというのだ。そして、送る魂に向かって、また肉体を人間の世界に持ってきてくださいと祈るのだという。
どこまでも人間の事情で作り出された考え方だと思う。熊はやはり熊であって、人のために生きているのでも神の国を行き来するのでもないと僕は思う。
しかし、そう考えるのはきっと今の僕が自然に内包された存在ではないということなのだろう。
自然の中にいる彼らは、熊の生命も神も、そして自らの生命も同じつながりのなかにあると感じていたに違いない。
熊を屠る自らもいつか熊に屠られ、そして魂は熊も人もわけ隔てなく存在していた。
つまり熊を殺すのは、自らを屠り、そして神の国に行くことでもあった。
このあたりは僕の勝手な拡大解釈ではあるが、きっとそれに近い感覚だったに違いない。
ハタハタもきった同じなのだろう。
きっとかつての人々は、自然が我々を生かすために送ってきた魚と捉えていたはずだ。
だから、捕れるだけ捕り、食べるだけ食べた(近年になって漁の技術が発達し、ハタハタを激減させたことはまた別の話だ)。
「自然の恵み」とは、きっとそういうものだ。
生命、いや、人という「存在」にかかわること。人を人として在らしめるために自然から送り届けられるギフト。そういうものなのだろう。
昨年の12月、僕が見に行ったのは、ハタハタ漁そのものではなく、浜に打ち上げられた卵だった。
「ブリコ」。この土地の人々はハタハタの卵を愛情をこめてそう呼び、これも大切な食料としてきた。
現在はハタハタ保護のため、ブリコの採取は禁じられているため、食卓に上ることはないが、今も「ブリコ」の風景は健在だ。
ハタハタは主に浅瀬の海藻などに卵を産むとされている。
卵の一粒は1mm程度だが、それを大体ゴルフボールほどの丸い塊にして産みつける。
大荒れの海での産卵行為である。上手に産みつけること自体が困難なのだろう。
多くのブリコが、波にさらわれ、浜に打ち上げられるのだ。かつて、土地の人はこれを拾って食べていたというだけあって、浜に打ち上げられるブリコはまさに大量といえる。
多い年だと浜辺一体がブリコに埋め尽くされ、しかもそれが20センチ近くも堆積していたというから驚きだ。
また、興味深いのは、浜に打ち上げられたブリコは死なないということだ。卵のひとつひとつが実にしなやかで堅い外膜を持ち、乾燥や凍れから身を守っているのだ。
理由はもちろん、再び海へと帰るためだ。
無数にころがっていたブリコは波によってひとつまたひとつと海へと戻っていき、ある時期が来ると、浜にはひとつのブリコもなくなっているという。
これをわかったような顔をして「自然の摂理」といってしまうのは僕たちの悪い癖だろう。これはきっと、アイヌの人々が創造してきたイオマンテのような行為を通じてしか、わかりえない世界なのだと思う。
その日、夜中に車を走らせ、日本海側の浜に着くと夜が明けようとしていた。
お目当ての浜にはうっすらと雪が積もり、波が砂を洗っていた。
ハタハタは数日前から現れ、いよいよ今年の漁が始まったと聞いていた。
カメラを準備して浜に降りて行った。
大量のブリコが打ち上げられるのは、産卵期の最後のころになるという。そのため、埋め尽くされるほどではなかったが、それでも数え切れないほどのブリコが浜に転がっていた。
僕は宝石を撮るような思いでブリコにカメラを向けた。
ブリコは驚くような色彩に彩られていた。
その多くは赤褐色だが、淡いブルー、エメラルド、朱、グレー…。産みつける場所で異なるのか、ブリコたちは個性を持っていた。
そこに村の古老がやってきた。夜に行われるハタハタ漁の準備をするため、浜に来たのだという。
僕は何気なく、「ブリコの色」について尋ねた。なぜ、このようにいろんな色がするのですか?と。
すると、古老は、なんだお前、そんなことも知らんのか、というようなそっけない口調で言った。
「お前にはお前の顔があるだろう。みんな自分の顔を持ってる。同じ顔はひとつとしてない。ブリコも同じことじゃ」
僕は、東北に暮らして以来、東北の風土や人の行為を理解しようとして努めてきた。
しかし、そこで本当に理解できたことはあったのだろうか。
ブリコをブリコと見なし、己を己と見なす。ここに境界線を引く。そういうものの見方、捉え方。
それはきっと、熊の魂と人の魂に境界を引き、ハタハタが浅瀬に押し寄せることを単に「産卵のため」と片づけることと同じなのだろう。
ブリコと己の間に境界線を持たない古老から見る海はどういう色をして、どういう匂いがするのろう。
今の時代を生きる僕たちに何かを取り戻す必要があるとするならば、訳知り顔の境界線を無にすることなのかもしれない。

青森 ブリコ 2011
ハタハタはいわずとしれた冬の日本海を代表する味覚なのだが、昨年、僕も魅了されることとなった。
もちろん、その深い滋味に感激したことはいうまでもないが、それ以上に心を揺さぶられたのは、「ハタハタ」と彼の地に暮らす「人」との関係だ。
「自然の恵み」
僕たちは日常のなかで簡単にこの言葉を使ったりする。
しかし、本当の自然の恵みとはいかなるものか。そんなことはいつもおかまいなしだ。
自然の中で採れたもの。自然の中で育てたもの。そんなものであれば、「自然の恵み」と僕は言ってきた。
ハタハタに出会うまで、ここに何の疑問も感じなかった。
でも今は違う。
「自然の恵み」とは、僕たちの存在を語る上でとても大切な、大きな言葉だと思っている。
過去にもこの場所 http://atsushi-okuyama.blog.so-net.ne.jp/archive/201012-1 で書いたので詳細は省くが、ハタハタのハタハタたる所以は、12月のある時期、突然、産卵のために浜に寄せることだろう。
約2週間。ハタハタを目にすることができるのはこの期間だけだ。それ以外の時期は深海に暮らすため、その存在は無に等しい。
つまり、今まで毎日海に出て漁をしていても見ることがなかった魚が、冬のある時期、それも大荒れの海のなかかやってきて、冬を生き抜く大切な糧となってくれるのだ。
さきほど「深海に暮らす」と書いたが、それは今の僕たちが知ることにすぎない。
大昔、遠い祖先たちはハタハタが普段どこに住んでいるかなんてことは知らなかった。いや、もしかしたら想像すらしなかったのかもしれない。
「冬となり、荒れ海原の先からやってきてくれるハタハタ」。この存在が大切であって、ハタハタが暮らす場所は神秘であり続けたはずだ。だからこそ、ハタハタは、神の魚「鰰」と書くのだろう。
そして、こうした「捕るもの、捕られるもの」の自然観は、自然の中で暮らす人間にとっては、ごく当たり前の感覚だったのだろう。
たとえば、北海道の地に生きるアイヌ。彼らの重要な祭祀に「イオマンテ」と呼ばれるものがあるという。
これは「熊祭り」ともいわれ、猟を通じて捕まえた子熊をある一定期間育てたのち、神の国に送ってやるという儀式だ。「送る」とはつまり「殺し」そして「食べる」というものだ。
アイヌの自然観のなかでは、熊は神である。しかし、熊の肉体はあくまで肉体であって、魂が神である。そこで、イオマンテでは、熊を大切に屠り、肉体は人の世界に置いていってもらうように祈り、魂は神の国に送ってやるというのだ。そして、送る魂に向かって、また肉体を人間の世界に持ってきてくださいと祈るのだという。
どこまでも人間の事情で作り出された考え方だと思う。熊はやはり熊であって、人のために生きているのでも神の国を行き来するのでもないと僕は思う。
しかし、そう考えるのはきっと今の僕が自然に内包された存在ではないということなのだろう。
自然の中にいる彼らは、熊の生命も神も、そして自らの生命も同じつながりのなかにあると感じていたに違いない。
熊を屠る自らもいつか熊に屠られ、そして魂は熊も人もわけ隔てなく存在していた。
つまり熊を殺すのは、自らを屠り、そして神の国に行くことでもあった。
このあたりは僕の勝手な拡大解釈ではあるが、きっとそれに近い感覚だったに違いない。
ハタハタもきった同じなのだろう。
きっとかつての人々は、自然が我々を生かすために送ってきた魚と捉えていたはずだ。
だから、捕れるだけ捕り、食べるだけ食べた(近年になって漁の技術が発達し、ハタハタを激減させたことはまた別の話だ)。
「自然の恵み」とは、きっとそういうものだ。
生命、いや、人という「存在」にかかわること。人を人として在らしめるために自然から送り届けられるギフト。そういうものなのだろう。
昨年の12月、僕が見に行ったのは、ハタハタ漁そのものではなく、浜に打ち上げられた卵だった。
「ブリコ」。この土地の人々はハタハタの卵を愛情をこめてそう呼び、これも大切な食料としてきた。
現在はハタハタ保護のため、ブリコの採取は禁じられているため、食卓に上ることはないが、今も「ブリコ」の風景は健在だ。
ハタハタは主に浅瀬の海藻などに卵を産むとされている。
卵の一粒は1mm程度だが、それを大体ゴルフボールほどの丸い塊にして産みつける。
大荒れの海での産卵行為である。上手に産みつけること自体が困難なのだろう。
多くのブリコが、波にさらわれ、浜に打ち上げられるのだ。かつて、土地の人はこれを拾って食べていたというだけあって、浜に打ち上げられるブリコはまさに大量といえる。
多い年だと浜辺一体がブリコに埋め尽くされ、しかもそれが20センチ近くも堆積していたというから驚きだ。
また、興味深いのは、浜に打ち上げられたブリコは死なないということだ。卵のひとつひとつが実にしなやかで堅い外膜を持ち、乾燥や凍れから身を守っているのだ。
理由はもちろん、再び海へと帰るためだ。
無数にころがっていたブリコは波によってひとつまたひとつと海へと戻っていき、ある時期が来ると、浜にはひとつのブリコもなくなっているという。
これをわかったような顔をして「自然の摂理」といってしまうのは僕たちの悪い癖だろう。これはきっと、アイヌの人々が創造してきたイオマンテのような行為を通じてしか、わかりえない世界なのだと思う。
その日、夜中に車を走らせ、日本海側の浜に着くと夜が明けようとしていた。
お目当ての浜にはうっすらと雪が積もり、波が砂を洗っていた。
ハタハタは数日前から現れ、いよいよ今年の漁が始まったと聞いていた。
カメラを準備して浜に降りて行った。
大量のブリコが打ち上げられるのは、産卵期の最後のころになるという。そのため、埋め尽くされるほどではなかったが、それでも数え切れないほどのブリコが浜に転がっていた。
僕は宝石を撮るような思いでブリコにカメラを向けた。
ブリコは驚くような色彩に彩られていた。
その多くは赤褐色だが、淡いブルー、エメラルド、朱、グレー…。産みつける場所で異なるのか、ブリコたちは個性を持っていた。
そこに村の古老がやってきた。夜に行われるハタハタ漁の準備をするため、浜に来たのだという。
僕は何気なく、「ブリコの色」について尋ねた。なぜ、このようにいろんな色がするのですか?と。
すると、古老は、なんだお前、そんなことも知らんのか、というようなそっけない口調で言った。
「お前にはお前の顔があるだろう。みんな自分の顔を持ってる。同じ顔はひとつとしてない。ブリコも同じことじゃ」
僕は、東北に暮らして以来、東北の風土や人の行為を理解しようとして努めてきた。
しかし、そこで本当に理解できたことはあったのだろうか。
ブリコをブリコと見なし、己を己と見なす。ここに境界線を引く。そういうものの見方、捉え方。
それはきっと、熊の魂と人の魂に境界を引き、ハタハタが浅瀬に押し寄せることを単に「産卵のため」と片づけることと同じなのだろう。
ブリコと己の間に境界線を持たない古老から見る海はどういう色をして、どういう匂いがするのろう。
今の時代を生きる僕たちに何かを取り戻す必要があるとするならば、訳知り顔の境界線を無にすることなのかもしれない。

青森 ブリコ 2011
彼岸の光
先日、約7年ぶりに実家のある奈良に帰った。
改めて考えてみると帰省していなかった年月の長さに驚いてしまうのだが、本当にあっという間の7年だったように思う。
それでも、実際に約15年ほど暮らした土地に立つと不思議な懐かしさに包まれた。
大きく様変わりしている部分もあったが、町並みの佇まいや空気に混じる匂いは、僕がずっと感じてきたものと同じだった。
妙な懐かしさと違和感のなかで、改めて自分はこの町で育ったことを知った。
それほど長い滞在ではなかったので、記憶の場所のあちこちを訪ねることはできなかったけれど、両親と兄、そして知人にあったりと普段にはない時間を過ごした。
そして、いろんなことを考えた。
一番は、土地と人の関わりについてだった。
今の岩手に暮らしは早いもので13年になる。
もうすぐ人生で一番長く住んだ土地になる。
もはや新鮮という印象を持つことは少ないのだが、それでもこの土地が持つ“風土”は強い存在感で僕に迫ってくる。
僕が岩手に暮らす理由は、この存在感を感じたいためでもある。
でも、風土の存在感以上に強い刺激を受けるのが人の存在だ。
いや、そもそも風土と人を分けて考える必要はないかもしれない。風土が人を生み、人が風土を生む。本来はそういう関係だろう。
とはいえ、やはり、僕にとっては、この人という存在が大きい。
岩手に移住したのは26歳のときだが、それ以前には感じなかったものをこの土地の人々に感じてきた。
だからこそ、東北は僕にとって常に特別なものとして在り続けているのだろう。
もちろん、奈良にも風土は存在するし、強烈な存在感を放つ人も多くいることだろう。
しかし、奈良に住んでいた当時、若くて何も知らない僕は不幸にもそれを感じることができなかった。
目の前にあったとして、気づかなかっただろうし、そもそも、当時は求めてもいなかったのかもしれない。
今再び、奈良に住めば、岩手で感じるように「奈良」を少しずつ発見するだろう、きっと。
そう頭では理解しながらも、いいや、そんなことはできないと感じてしまう。
僕が知るあの人たちのような、ただ立っているだけで、あるいは笑っているだけで、強烈な印象を残すあのような人たちは、東北という土地ならではの人だちだと考えてしまう。
もちろん、東北のすべての人がそういう人ではない。ほんのわずかだ。
でも、たった一人、その人が存在するだけで目の前の風景がすべて変わってしまうような人と東北で出会ってきたことは事実だ。
なぜ、そんな人が東北にはいるのだろう。
歴史を古代まで遡っていくと、東北には蝦夷と呼ばれた人たちの存在が浮かび上がり、朝廷側の奈良や京都の人間とは異なる人たちだということがわかる。でもそういうものではないだろう。源流に明らかな違いはあっても、今となっては、それはまた別の話だと思う。
そんなとき、ふと思ったのは、人と土地の量的な関係だ。
実にいい加減なアイデアなのだが、東北はいうまでもなく広い。しかし、住んでいる人が本当に少ない。仙台は大きな街だが、それ以外は各県にひとつずつ中都市があるに過ぎない。あとは全部、野と山だ。それもとびきり濃厚な自然を持つ大地だ。
そして、この広大な大地のなかに、文字通り、点々と人が住んでいる。
人が暮らすというのは土地と関係を結んでいくことだ。
ときには征服にも似た行為で土地を手なづけることもあるし、ときには自然の猛威にさらされ、為す術もないという状態に陥ることもあるだろう。
共生といえば言葉はいいが、どういうかたちであれ、そこにある土地と関係を深めていくことでしか人は生きられない。
そして、言うまでもなく、土地の力は強大だ。しかし、人の力はあまりにも小さい。
たとえば地面に穴を掘るとしたらどうだろうか。スコップひとつ無い状態で深さ30cmほどの穴を掘るとしたらどれだけの苦労が必要になるだろう。
だからこそ、人は集まり、力を束ねて土地と向き合ってきた。土地を前にしたとき、人の力の大小を決めるのは頭数だった。
ところが、東北の地における頭数は西日本などと比べるとあまりに少ない。
少ない頭数、小さな力で大きな土地を相手にどうするか。簡単な話だ。一人一人が少しでも大きな力を出し続けるしかない。あるいは、小さな力でも上手にやりすごす知恵を磨く。
こうした積み重ねが東北の人間というものではないだろうか。
大きな土地の力と対等になるべく育んできた個の力。それがこの地の暮らす人の本質であり、それが強烈な存在感を放っているのではないだろうか。
と、ここまで書いて、これもやっぱり違うのだろうと感じる。
東北の人が西日本から見ると鄙の地に暮らし、個性を作っていったことには違いない。そして、この個性が土地と結びつき、風土と呼ばれるものを作ってきたことも間違いない。
それでも、人が少ないからといって、人が多い他と土地に比べて存在感が大きくなるというのはやっぱり乱暴な見方だ。
そんな簡単なことではないはずだ。
でも、だからこそ、捉えどころが難しいからこそ、僕はこうして、東北の人と土地の関係、風土の在りように魅かれるのだろう。
己の思考が相変わらずたわいもないなと心の中で笑いながら、夜の街にカメラを向けるべく三脚を立てた。
目の前には、淀川が音も無く流れ、大阪の眩い街明かりが、その流れのなかに克明に写し込まれていた。
ついさっきまで僕は、この流れの向こう、大阪駅の街区が放つ光の中にいて、知人と会っていたのだった。
大きな音が聞こえてきたと思ったら、流れに架けられた鉄橋の真ん中へと列車が滑り込んできた。
もう夜更けに近い時間だったが、列車の中には多くの人が乗っていた。
みんな、どこへ帰るのだろうか。
つい30分ほど前、川の向こうで見た街区の賑わいを思い浮かべながら思った。
その彼岸で、僕が立つ此岸は暗く静けさに包まれていた。
彼岸と此岸…。この街の人は毎日、その間を旅しているのだろうか。
なぜか、あの人のことが思い起こされた。
岩手の県北、小さな山村のさらに小さな集落の奥の奥、沢のどん詰まりに住む人のことだった。
集落といってもわずか数軒の家があるだけで、あとは周囲何キロにも渡って人家はなく、どこまでも深い森に覆われている…。
そんな土地で生まれ、育ってきた人だった。
いつだったか、その人と春の山を歩いたことがあった。
当然、山には精通していた。クマ撃ちをしているという以前に、その人にとって山は本当に慣れ親しんでいる場所なのだろう。
山の木々の一本一本の性格、吹く風がどこに行くか、流れる沢がどこからやってくるか、森羅万象の細部を身の上話のように語った。
人が山なのか、山が人なのか…わからなくなる。そんな印象だった。
そんな人が僕に言ったのだ。
「おら、なんでここに生まれたか、ときどき不思議に思うんだ。東京とか、ニューヨークとか、世界中にはそれこそ数えれんほどの土地があって、街があるわけだろう。そして、そこでたくさんの人が住んで、たくさんのわらしっ子が生まれてるわけだろう。それなのに、おらはこんな誰もいない山さ、生まれたんだろうかって。別にほかの場所でも良かったんだどもな、でも、なぜか、ここだった。本当によう、まったく不思議だなあって」
そういって、その人はずいぶん真面目な顔をした。
存在の不思議、といえばいいのだろうか。
街だとか、山だとかそういうことではなく、この世界に存在することは本当に不思議なことなのかもしれないと、その人は言いたかったのだろうか。そのときの僕はすぐに返す言葉もなく「本当に不思議ですね」と相づちを打った。
大阪の夜に向けて、もう一枚シャッターを押した。F8で9秒間の長時間露光だったが、時計を持っていなかったため、1から9まで声に出して数えた。
これで、レンズの向こうにある、ほぼすべての光を暗室の中で再現できるはずだった。
レリーズを放すとシャッとレンズシャッターの閉じる音がした。
10枚撮りのフィルムは数枚残っていたが、もう十分だろう。
三脚の脚を縮めながら、そうか、そうなんだと思った。
「そうか、この場所で良かったんだな」
あの人は、あの土地に生まれたことの不思議を語ったあと、しばらくしてからこう言ったのだ。
人はみな小さな世界で生まれる。そして、育っていくなかで世界が広大にあることを知る。
そこに出て行くか。あるいは留まるか。
もし、後者を選択したとき、何をしていけばいいのだろう。
小さな世界に閉じていくことになるのだろうか。
森に暮らすその人は、熊が冬眠するネグラを100カ所も知っているのだという。
初冬を迎えると、これら穴の中からその年の冬眠穴を見つけ出し、熊を獲るのだという。
こうした行為とはきっと、自らの立つ小さな世界を深めていくことにつながっていくのではかなろうか。
そして、それこそが、自らが在る世界と、世界に自らが在ることに、意味を見出していくことにつながっていくような気がする。
僕がこの東北という土地に魅力を感じ続けているのは、この意味を胸に抱く人がしっかりと生きているからなのだろう。

大阪彼岸 2011
改めて考えてみると帰省していなかった年月の長さに驚いてしまうのだが、本当にあっという間の7年だったように思う。
それでも、実際に約15年ほど暮らした土地に立つと不思議な懐かしさに包まれた。
大きく様変わりしている部分もあったが、町並みの佇まいや空気に混じる匂いは、僕がずっと感じてきたものと同じだった。
妙な懐かしさと違和感のなかで、改めて自分はこの町で育ったことを知った。
それほど長い滞在ではなかったので、記憶の場所のあちこちを訪ねることはできなかったけれど、両親と兄、そして知人にあったりと普段にはない時間を過ごした。
そして、いろんなことを考えた。
一番は、土地と人の関わりについてだった。
今の岩手に暮らしは早いもので13年になる。
もうすぐ人生で一番長く住んだ土地になる。
もはや新鮮という印象を持つことは少ないのだが、それでもこの土地が持つ“風土”は強い存在感で僕に迫ってくる。
僕が岩手に暮らす理由は、この存在感を感じたいためでもある。
でも、風土の存在感以上に強い刺激を受けるのが人の存在だ。
いや、そもそも風土と人を分けて考える必要はないかもしれない。風土が人を生み、人が風土を生む。本来はそういう関係だろう。
とはいえ、やはり、僕にとっては、この人という存在が大きい。
岩手に移住したのは26歳のときだが、それ以前には感じなかったものをこの土地の人々に感じてきた。
だからこそ、東北は僕にとって常に特別なものとして在り続けているのだろう。
もちろん、奈良にも風土は存在するし、強烈な存在感を放つ人も多くいることだろう。
しかし、奈良に住んでいた当時、若くて何も知らない僕は不幸にもそれを感じることができなかった。
目の前にあったとして、気づかなかっただろうし、そもそも、当時は求めてもいなかったのかもしれない。
今再び、奈良に住めば、岩手で感じるように「奈良」を少しずつ発見するだろう、きっと。
そう頭では理解しながらも、いいや、そんなことはできないと感じてしまう。
僕が知るあの人たちのような、ただ立っているだけで、あるいは笑っているだけで、強烈な印象を残すあのような人たちは、東北という土地ならではの人だちだと考えてしまう。
もちろん、東北のすべての人がそういう人ではない。ほんのわずかだ。
でも、たった一人、その人が存在するだけで目の前の風景がすべて変わってしまうような人と東北で出会ってきたことは事実だ。
なぜ、そんな人が東北にはいるのだろう。
歴史を古代まで遡っていくと、東北には蝦夷と呼ばれた人たちの存在が浮かび上がり、朝廷側の奈良や京都の人間とは異なる人たちだということがわかる。でもそういうものではないだろう。源流に明らかな違いはあっても、今となっては、それはまた別の話だと思う。
そんなとき、ふと思ったのは、人と土地の量的な関係だ。
実にいい加減なアイデアなのだが、東北はいうまでもなく広い。しかし、住んでいる人が本当に少ない。仙台は大きな街だが、それ以外は各県にひとつずつ中都市があるに過ぎない。あとは全部、野と山だ。それもとびきり濃厚な自然を持つ大地だ。
そして、この広大な大地のなかに、文字通り、点々と人が住んでいる。
人が暮らすというのは土地と関係を結んでいくことだ。
ときには征服にも似た行為で土地を手なづけることもあるし、ときには自然の猛威にさらされ、為す術もないという状態に陥ることもあるだろう。
共生といえば言葉はいいが、どういうかたちであれ、そこにある土地と関係を深めていくことでしか人は生きられない。
そして、言うまでもなく、土地の力は強大だ。しかし、人の力はあまりにも小さい。
たとえば地面に穴を掘るとしたらどうだろうか。スコップひとつ無い状態で深さ30cmほどの穴を掘るとしたらどれだけの苦労が必要になるだろう。
だからこそ、人は集まり、力を束ねて土地と向き合ってきた。土地を前にしたとき、人の力の大小を決めるのは頭数だった。
ところが、東北の地における頭数は西日本などと比べるとあまりに少ない。
少ない頭数、小さな力で大きな土地を相手にどうするか。簡単な話だ。一人一人が少しでも大きな力を出し続けるしかない。あるいは、小さな力でも上手にやりすごす知恵を磨く。
こうした積み重ねが東北の人間というものではないだろうか。
大きな土地の力と対等になるべく育んできた個の力。それがこの地の暮らす人の本質であり、それが強烈な存在感を放っているのではないだろうか。
と、ここまで書いて、これもやっぱり違うのだろうと感じる。
東北の人が西日本から見ると鄙の地に暮らし、個性を作っていったことには違いない。そして、この個性が土地と結びつき、風土と呼ばれるものを作ってきたことも間違いない。
それでも、人が少ないからといって、人が多い他と土地に比べて存在感が大きくなるというのはやっぱり乱暴な見方だ。
そんな簡単なことではないはずだ。
でも、だからこそ、捉えどころが難しいからこそ、僕はこうして、東北の人と土地の関係、風土の在りように魅かれるのだろう。
己の思考が相変わらずたわいもないなと心の中で笑いながら、夜の街にカメラを向けるべく三脚を立てた。
目の前には、淀川が音も無く流れ、大阪の眩い街明かりが、その流れのなかに克明に写し込まれていた。
ついさっきまで僕は、この流れの向こう、大阪駅の街区が放つ光の中にいて、知人と会っていたのだった。
大きな音が聞こえてきたと思ったら、流れに架けられた鉄橋の真ん中へと列車が滑り込んできた。
もう夜更けに近い時間だったが、列車の中には多くの人が乗っていた。
みんな、どこへ帰るのだろうか。
つい30分ほど前、川の向こうで見た街区の賑わいを思い浮かべながら思った。
その彼岸で、僕が立つ此岸は暗く静けさに包まれていた。
彼岸と此岸…。この街の人は毎日、その間を旅しているのだろうか。
なぜか、あの人のことが思い起こされた。
岩手の県北、小さな山村のさらに小さな集落の奥の奥、沢のどん詰まりに住む人のことだった。
集落といってもわずか数軒の家があるだけで、あとは周囲何キロにも渡って人家はなく、どこまでも深い森に覆われている…。
そんな土地で生まれ、育ってきた人だった。
いつだったか、その人と春の山を歩いたことがあった。
当然、山には精通していた。クマ撃ちをしているという以前に、その人にとって山は本当に慣れ親しんでいる場所なのだろう。
山の木々の一本一本の性格、吹く風がどこに行くか、流れる沢がどこからやってくるか、森羅万象の細部を身の上話のように語った。
人が山なのか、山が人なのか…わからなくなる。そんな印象だった。
そんな人が僕に言ったのだ。
「おら、なんでここに生まれたか、ときどき不思議に思うんだ。東京とか、ニューヨークとか、世界中にはそれこそ数えれんほどの土地があって、街があるわけだろう。そして、そこでたくさんの人が住んで、たくさんのわらしっ子が生まれてるわけだろう。それなのに、おらはこんな誰もいない山さ、生まれたんだろうかって。別にほかの場所でも良かったんだどもな、でも、なぜか、ここだった。本当によう、まったく不思議だなあって」
そういって、その人はずいぶん真面目な顔をした。
存在の不思議、といえばいいのだろうか。
街だとか、山だとかそういうことではなく、この世界に存在することは本当に不思議なことなのかもしれないと、その人は言いたかったのだろうか。そのときの僕はすぐに返す言葉もなく「本当に不思議ですね」と相づちを打った。
大阪の夜に向けて、もう一枚シャッターを押した。F8で9秒間の長時間露光だったが、時計を持っていなかったため、1から9まで声に出して数えた。
これで、レンズの向こうにある、ほぼすべての光を暗室の中で再現できるはずだった。
レリーズを放すとシャッとレンズシャッターの閉じる音がした。
10枚撮りのフィルムは数枚残っていたが、もう十分だろう。
三脚の脚を縮めながら、そうか、そうなんだと思った。
「そうか、この場所で良かったんだな」
あの人は、あの土地に生まれたことの不思議を語ったあと、しばらくしてからこう言ったのだ。
人はみな小さな世界で生まれる。そして、育っていくなかで世界が広大にあることを知る。
そこに出て行くか。あるいは留まるか。
もし、後者を選択したとき、何をしていけばいいのだろう。
小さな世界に閉じていくことになるのだろうか。
森に暮らすその人は、熊が冬眠するネグラを100カ所も知っているのだという。
初冬を迎えると、これら穴の中からその年の冬眠穴を見つけ出し、熊を獲るのだという。
こうした行為とはきっと、自らの立つ小さな世界を深めていくことにつながっていくのではかなろうか。
そして、それこそが、自らが在る世界と、世界に自らが在ることに、意味を見出していくことにつながっていくような気がする。
僕がこの東北という土地に魅力を感じ続けているのは、この意味を胸に抱く人がしっかりと生きているからなのだろう。

大阪彼岸 2011
晩秋の光
久しぶりに北海道に暮らす弁造さんを訪ねている。
いつものように数日間、弁造さんと一緒の時間を過ごすというものだが、今回は、少しだけ薪割り仕事を手伝うことになった。
92歳を迎えた弁造さんは、今年になって急激に体力が落ち、薪を作ることができないで秋を迎えていたからだ。
弁造さんの暮らす新十津川では厳寒期になると零下20度を下まわることも少なくない。
暖房を必要とする期間は、10月半ばから5月まで、軽く6ヶ月間以上となる。
弁造さんは、この長い冬を越すため、毎年大量の薪を用意してきた。
薪となる原木は広い庭で自らが育ててきたもので、倒木や間伐材を利用しているので潤沢にある。
そのため、弁造さんの薪小屋には、普段なら少なくとも2年分、多い年では3年分という薪のストックがあった。
しかし、数年前から「もう長くは生きられないから」と、薪を何年分も貯めないようになっていた。
おそらく体力的にもきつかったんだろうと思う。
そして、今年の春を迎えた時、薪小屋はほぼ空っぽになっていた。
いつもの弁造さんなら、「薪割りを手伝う」という僕の申し出を断っただろう。
弁造さんは毎日、背中に3枚の湿布を貼るのだが、たとえば、その湿布貼りの申し出すらいつも断る。
「あんたは、いつも俺のそばにいる人じゃない。あんたがおらんからって湿布を貼らんというわけにはいかん」
そう言って、弁造さんは、湿布を手のひらに乗せると、肩越しに投げるようにしてペタペタと張っていく。
自分の世話は自分でするということ。
狙った場所に湿布を貼ることができて、満足そうに笑う弁造さんを見ていると、それは弁造さんの譲ることができない誇りなのかもしれないと感じる。
しかし、そんな弁造さんも今回ばかりは、「僕に薪を割らせてください」という申し出を受け入れてくれた。
役に立てる喜びと、寂しさ。今回はそれを携えての訪問だった。
そして、約3日かけて、夜明けから日没までみっちり薪を割った。
薪というものは、割ってから約半年ほどの乾燥期間が必要だが、弁造さんは数年前から原木にシートをかけ、乾燥させていた。
そのため、斧で割ればすぐに焚ける薪となった。
そして、みるみるうちに薪小屋には薪が積み上がり、約7ヶ月分の薪を確保することができた。
弁造さんは、せわしなく仕事する僕を付きっきりで見守ってくれ、薪を眺めては「ああ、まるで夢をみてるようじゃ。薪で過ごす冬はもう諦めとったのに」と何度もつぶやいた。
最後の薪を小屋にしまい、片付けをした後、弁造さんの部屋でのんびりとくつろいだ。
窓からは、橙色の光が差し込んでいた。
その光に見ていると、薪を割っている間、朝から夕方までずっと、同じような光が届いていたことに気がついた。
それは北国の晩秋特有の光で、まるで夕方が永遠に続くような不思議なものだった。
太陽は空のてっぺんに登ることなくずっと傾いたまま、柔らかく、それでいて凛とした気配を宿した光を放っていた。
枝先に残っていた葉は、この光で葉脈を浮き上がらせ、やはり橙色に光っていた。
ビニールシートを張った窓を通ってくる晩秋の光は、さらに柔らかさを増し、大きく膨らみながら弁造さんの部屋全体を照らし出していた。
顔も洋服もすべてを橙色に染めながら弁造さんは、「そうだ、今からさくらをスケッチしよう」と言った。
「さくら」とはいつも僕が岩手からつれてきた犬のことだった。
さくらも3日間ずっと、薪割り仕事を手伝うかのように僕と弁造さんのそばにいたが、仕事が終わったのを見届けると安心したのか、部屋の片隅で横になって眠っていた。
弁造さんは、「さくらや、そのまま眠っていろよ」といいながら、描きかけのスケッチブックを手に取ると、一本、また一本と鉛筆の線を書き込んでいった。
端から見ていると、簡単にすらすらと描いているように見えたが、「指が震えて思うように筆が走らん、まったく老いぼれたもんじゃ」と弁造さんは言った。でも、悔しそうではなく、どこか楽しげな口調にも聞こえた。
弁造さんは何枚ものさくらを描いた。
輪郭を描き、毛並みのディティールを描き、影を濃くし、いよいよ顔の眼の部分に進もうとするたびに、さくらが動いたからだった。
さくらは、家でもそうだが10分ほどで寝相を変える。弁造さんの部屋でも同じように手足を伸ばし、ごろりと寝相を変えた。
弁造さんは、さくらのポーズが変わったことに悔しそうな顔をするでもなく、ページをめくり、また最初から一本の線を入れ始めた。
線から形へ、そして肉体へ、僕はスケッチブックの紙の上で起こる魔法をずっと見続け、息を殺してシャッターを押した。
結局、さくらの顔の細部は描かれることなかったが、弁造さんは満足したのか、2冊目のスケッチブックを閉じ、「これはあんたにやろう」と言って笑った。
弁造さんが絵を描いている時間もずっと、窓からは晩秋の光が注ぎ込まれていた。
くすんだビニールの窓には、木々の影が落ち、幻想的な影絵が映し出されているようだった。
描く人と眠る犬と木々の影と光と…。それは、時が止まり、光だけが増え続けていくような不思議な時間だった。
ふと、こういう時間のことを何と呼ぶのだろうと思った。
人生の最期、いくばくかの年月のことだ。
それは「晩年」ではないはずだと思った。
決して夜ではない。今、弁造さんがそこにいるように、こうして柔らく澄み、温かく照らす光に満たされる時は、「晩年」とはまるで違う表現になるべきだと思われた。
しかし、僕に新たな言葉が浮かんでくることはなかった。
理解していることは、こうした時間のほとんどを弁造さんは使ってしまったということだった。
「ああ、そういえば、あんたにキクイモを見せておらんかった。今、知り合いに何人も糖尿病がいてのう。キクイモが効くっていうから植えとるんじゃ。見せてやろう」
弁造さんはそういって、僕を戸外へと誘った。
外に出ると、晩秋の光は部屋の中で見ていたそれよりもはるかに力強く、風景のすべてを照らしていた。
家の裏の畑へと向かう弁造さんを眼で追っていると、小さな白いものがふわふわと飛んでいた。
僕は思わず「弁造さん、雪虫が飛んでいる!」と叫んだ。
弁造さんは驚く様子もなく振り返るとと、「ああ、雪虫か。これは、アブラムシの一種なんじゃが、きれいな姿をしているから案外好かれとる虫じゃよ」と言った。
僕は、ふわふわと舞う雪虫にそっと手を出し、袖に停まらせた。
眼を近づけると、雪虫のお腹には青白い羽毛のようなものが生えていて、まさに一片の小さな雪のように見えた。
「この虫がな、初雪を迎える頃、一斉に舞うんじゃ。去年なんかは眼も開けられんほど舞ったな。言葉では言えんぐらいきれいじゃった」
弁造さんはそうつぶやくと、「キクイモはこっちじゃ」と付け加えた。
僕は、袖に停まる雪虫を見ながら、いつか、眼も開けられないほどの雪虫が舞う光景を見てみたいと思った。
でも、きっとそれは叶わないだろうと、その思いを打ち切った。と同時に、雪虫が舞う光景は、弁造さんの最期の光景と同じであることを知った。
近い将来、弁造さんが逝ってしまうそのとき、きっと僕は、弁造さんを見送ることはできないだろう。
僕がどれほど見送ることを望もうとも、きっと、弁造さんは一人で生きてきたように、一人で逝ってしまうに違いない。
そして、僕は、弁造さんのいなくなった世界で、弁造さんがいなくなったことを徐々に見つけていくしかないのだろう。
写真とは見ることとどこまでもつながっている。
でも、実は、本当に見たいものを写すことなんて、できやしない。
本当に見たいものを見ることすらできないのだから。
でも、それでも僕は見ることの意味をこれからも信じ続けるのだろう。
そして、見たいものにきっと続いていくだろう光に対して、手のひらの中にあるレンズとその奥にあるフィルムを向け続けるに違いない。
今も僕の頭は、あの光、北国の秋の永遠に続く夕方の光に占められている。

いつものように数日間、弁造さんと一緒の時間を過ごすというものだが、今回は、少しだけ薪割り仕事を手伝うことになった。
92歳を迎えた弁造さんは、今年になって急激に体力が落ち、薪を作ることができないで秋を迎えていたからだ。
弁造さんの暮らす新十津川では厳寒期になると零下20度を下まわることも少なくない。
暖房を必要とする期間は、10月半ばから5月まで、軽く6ヶ月間以上となる。
弁造さんは、この長い冬を越すため、毎年大量の薪を用意してきた。
薪となる原木は広い庭で自らが育ててきたもので、倒木や間伐材を利用しているので潤沢にある。
そのため、弁造さんの薪小屋には、普段なら少なくとも2年分、多い年では3年分という薪のストックがあった。
しかし、数年前から「もう長くは生きられないから」と、薪を何年分も貯めないようになっていた。
おそらく体力的にもきつかったんだろうと思う。
そして、今年の春を迎えた時、薪小屋はほぼ空っぽになっていた。
いつもの弁造さんなら、「薪割りを手伝う」という僕の申し出を断っただろう。
弁造さんは毎日、背中に3枚の湿布を貼るのだが、たとえば、その湿布貼りの申し出すらいつも断る。
「あんたは、いつも俺のそばにいる人じゃない。あんたがおらんからって湿布を貼らんというわけにはいかん」
そう言って、弁造さんは、湿布を手のひらに乗せると、肩越しに投げるようにしてペタペタと張っていく。
自分の世話は自分でするということ。
狙った場所に湿布を貼ることができて、満足そうに笑う弁造さんを見ていると、それは弁造さんの譲ることができない誇りなのかもしれないと感じる。
しかし、そんな弁造さんも今回ばかりは、「僕に薪を割らせてください」という申し出を受け入れてくれた。
役に立てる喜びと、寂しさ。今回はそれを携えての訪問だった。
そして、約3日かけて、夜明けから日没までみっちり薪を割った。
薪というものは、割ってから約半年ほどの乾燥期間が必要だが、弁造さんは数年前から原木にシートをかけ、乾燥させていた。
そのため、斧で割ればすぐに焚ける薪となった。
そして、みるみるうちに薪小屋には薪が積み上がり、約7ヶ月分の薪を確保することができた。
弁造さんは、せわしなく仕事する僕を付きっきりで見守ってくれ、薪を眺めては「ああ、まるで夢をみてるようじゃ。薪で過ごす冬はもう諦めとったのに」と何度もつぶやいた。
最後の薪を小屋にしまい、片付けをした後、弁造さんの部屋でのんびりとくつろいだ。
窓からは、橙色の光が差し込んでいた。
その光に見ていると、薪を割っている間、朝から夕方までずっと、同じような光が届いていたことに気がついた。
それは北国の晩秋特有の光で、まるで夕方が永遠に続くような不思議なものだった。
太陽は空のてっぺんに登ることなくずっと傾いたまま、柔らかく、それでいて凛とした気配を宿した光を放っていた。
枝先に残っていた葉は、この光で葉脈を浮き上がらせ、やはり橙色に光っていた。
ビニールシートを張った窓を通ってくる晩秋の光は、さらに柔らかさを増し、大きく膨らみながら弁造さんの部屋全体を照らし出していた。
顔も洋服もすべてを橙色に染めながら弁造さんは、「そうだ、今からさくらをスケッチしよう」と言った。
「さくら」とはいつも僕が岩手からつれてきた犬のことだった。
さくらも3日間ずっと、薪割り仕事を手伝うかのように僕と弁造さんのそばにいたが、仕事が終わったのを見届けると安心したのか、部屋の片隅で横になって眠っていた。
弁造さんは、「さくらや、そのまま眠っていろよ」といいながら、描きかけのスケッチブックを手に取ると、一本、また一本と鉛筆の線を書き込んでいった。
端から見ていると、簡単にすらすらと描いているように見えたが、「指が震えて思うように筆が走らん、まったく老いぼれたもんじゃ」と弁造さんは言った。でも、悔しそうではなく、どこか楽しげな口調にも聞こえた。
弁造さんは何枚ものさくらを描いた。
輪郭を描き、毛並みのディティールを描き、影を濃くし、いよいよ顔の眼の部分に進もうとするたびに、さくらが動いたからだった。
さくらは、家でもそうだが10分ほどで寝相を変える。弁造さんの部屋でも同じように手足を伸ばし、ごろりと寝相を変えた。
弁造さんは、さくらのポーズが変わったことに悔しそうな顔をするでもなく、ページをめくり、また最初から一本の線を入れ始めた。
線から形へ、そして肉体へ、僕はスケッチブックの紙の上で起こる魔法をずっと見続け、息を殺してシャッターを押した。
結局、さくらの顔の細部は描かれることなかったが、弁造さんは満足したのか、2冊目のスケッチブックを閉じ、「これはあんたにやろう」と言って笑った。
弁造さんが絵を描いている時間もずっと、窓からは晩秋の光が注ぎ込まれていた。
くすんだビニールの窓には、木々の影が落ち、幻想的な影絵が映し出されているようだった。
描く人と眠る犬と木々の影と光と…。それは、時が止まり、光だけが増え続けていくような不思議な時間だった。
ふと、こういう時間のことを何と呼ぶのだろうと思った。
人生の最期、いくばくかの年月のことだ。
それは「晩年」ではないはずだと思った。
決して夜ではない。今、弁造さんがそこにいるように、こうして柔らく澄み、温かく照らす光に満たされる時は、「晩年」とはまるで違う表現になるべきだと思われた。
しかし、僕に新たな言葉が浮かんでくることはなかった。
理解していることは、こうした時間のほとんどを弁造さんは使ってしまったということだった。
「ああ、そういえば、あんたにキクイモを見せておらんかった。今、知り合いに何人も糖尿病がいてのう。キクイモが効くっていうから植えとるんじゃ。見せてやろう」
弁造さんはそういって、僕を戸外へと誘った。
外に出ると、晩秋の光は部屋の中で見ていたそれよりもはるかに力強く、風景のすべてを照らしていた。
家の裏の畑へと向かう弁造さんを眼で追っていると、小さな白いものがふわふわと飛んでいた。
僕は思わず「弁造さん、雪虫が飛んでいる!」と叫んだ。
弁造さんは驚く様子もなく振り返るとと、「ああ、雪虫か。これは、アブラムシの一種なんじゃが、きれいな姿をしているから案外好かれとる虫じゃよ」と言った。
僕は、ふわふわと舞う雪虫にそっと手を出し、袖に停まらせた。
眼を近づけると、雪虫のお腹には青白い羽毛のようなものが生えていて、まさに一片の小さな雪のように見えた。
「この虫がな、初雪を迎える頃、一斉に舞うんじゃ。去年なんかは眼も開けられんほど舞ったな。言葉では言えんぐらいきれいじゃった」
弁造さんはそうつぶやくと、「キクイモはこっちじゃ」と付け加えた。
僕は、袖に停まる雪虫を見ながら、いつか、眼も開けられないほどの雪虫が舞う光景を見てみたいと思った。
でも、きっとそれは叶わないだろうと、その思いを打ち切った。と同時に、雪虫が舞う光景は、弁造さんの最期の光景と同じであることを知った。
近い将来、弁造さんが逝ってしまうそのとき、きっと僕は、弁造さんを見送ることはできないだろう。
僕がどれほど見送ることを望もうとも、きっと、弁造さんは一人で生きてきたように、一人で逝ってしまうに違いない。
そして、僕は、弁造さんのいなくなった世界で、弁造さんがいなくなったことを徐々に見つけていくしかないのだろう。
写真とは見ることとどこまでもつながっている。
でも、実は、本当に見たいものを写すことなんて、できやしない。
本当に見たいものを見ることすらできないのだから。
でも、それでも僕は見ることの意味をこれからも信じ続けるのだろう。
そして、見たいものにきっと続いていくだろう光に対して、手のひらの中にあるレンズとその奥にあるフィルムを向け続けるに違いない。
今も僕の頭は、あの光、北国の秋の永遠に続く夕方の光に占められている。

背後にあるもの

2011 黒石よされ
先日、青森で行われた「日本の祭り」というイベントに参加した。
撮影ではなく参加。いつもはどこへ行っても撮影という立場なのだが、今回は、ここ数年ずっと通っている青森の大間越の「春日送り」がこのイベントに参加するということで、祭り人の一人として参加させてもらうことになった。
イベントの中身としてはホスト県の青森の祭りを中心に、全国各地の祭りが集い、二つの会場に分かれて披露するというものだ。
僕が参加させてもらった「春日送り」は青森港に面したアスパム前に作られた特設会場で、初日の午後に出演することとなっていた。
本来の祭りではなくイベントでなので、リハーサルから始まり、準備、待機、出演という段取りで進んだ。そして、いろいろと準備を重ねながら本番を迎えたが実際に始まるとあっという間のことだった。
持ち時間はそれぞれ20分。この時間が長いか短いかは別として、春日送りの披露はおそらく5分ほどで終わった。
実際の春日送りは、丸一日かけて行う祭りなのだが、基本的には歌も踊りも繰り返しであるため、イベント用に披露するとなると、短時間の構成になったのだ。
それでも春日送りの「あーシッチョイ、シッチョイ、シッチョイナ」という歌声や、「エンヤラエンヤラエンヤラホーイ」という独特の掛け声は、晴天の会場に気持よく響き渡り、たくさんの拍手をいただくことができた。
そして、会場の脇でわざわざ大間越から運び込んだ春日丸をトラックに乗せ、おおよその後片付けを済ませると、みんなで記念撮影をした。
僕にとって、はじめての春日祭りの参加(そういえるのかどうかわからないけれど…)はこうして終わった。
これまで何年もかけていろいろな祭りを撮ってきたが、自分が祭りの側に立つのは初めてのことだった。
どこの土地でも暖かく受け入れてもらってきたが、よそ者の僕と祭り人の間には、見えない線がひかれていて、僕は決してその中に入ることはできなかった。
ずいぶんと慣れ親しんだ大間越でもこの状況は変わることなかった。
僕は常に土地と人と、祭りという行為を眺める存在だった。
人によっては寂しい立ち位置なのかもしれないが、そこは僕にはとても心地よい場所だ。
少し離れた場所、手を伸ばせば届きそうな場所、体温は息遣いをダイレクトに感じられる場所。言ってみると遠視と近視との間にあるような視点からは僕が見たいと願ってきた様々なものが見えた。
それは土地の匂いであり、人々の表情であり、何よりも土地の暮らしの今にほかならなかった。
そんな視座で、大間越の春日送り、白神岳山かけ、獅子舞いなどを見て、いつも驚きに満ちた思いを覚えるのが「海」という存在だった。
躍る人、跳ねる人、舞う人、歌う人…。祭りを行う人々の向こうにいつも背景としての海があった。
背景にある海はひとつとして同じものではなかったけれど、「海」という大きな存在感は変わることがなかった。そこでは、海は人であり、人は海であるようにも思えた。
以前、大間越の人たちと話していて、この土地の人々にとって、波の音は揺りかごであり、海の水は血流のようなものだと感じたことがあるが、それは感覚だけではなく、眼に見える風景としても、人と海が分かちがたく結びついていた。
今回のイベントでステージの上にあがり、「シッチョイシッチョイシッチョイナー」と歌いながら春日丸の周りをまわっているとき、少し心配になったのはそのことだった。
ステージの下でこの踊りを見ている人たちに、僕たちの背中にある海が見えているだろうか?ザザンザザンと寄せる波の音が聞こえるだろうか?
背景としての海。それを何とか感じてもらいたいと願いながら踊っていた。
とはいえ、僕自身も、自らが躍る背中にある海を想像し、波音を頭の中で聞こうとしたけれど、それは簡単なことではなかった。
きっと、大間越の人たちには容易なことなのだろうけれど、よそ者の僕は、記憶の深層を司るような海を持っていない。寂しいことだけど、だからこそ、原風景を持つことに意味があるように思う。
大間越の人と話していてこんなことを聞いた。
若いときに、故郷を離れ、内陸の町で暮らしていたというときの話だ。
あるとき、夜中に妙な恐ろしさを覚えたという。とくに何かがあったわけではないが、何か恐ろしい。
そんな日が何度か続いたとき、ふと気付く。そうか、ここの夜は静か過ぎるんだ。大間越では、夜になれば、窓の向こうで海が鳴っていた。時化はもちろん、凪であっても、海の気配が音としてあった。この町にはそれがまったくなく、ひたすらに静まりかえっている。
ほかに代わりになることばが見当たらないから「世界」などという言葉を使うけれど、個における世界観とは、生まれ落ちてからの無数の体験が複雑に絡みあいながら、その人ならではの世界を作り出しているはずだ。大間越の人にとって、海はきっと世界観のベースとなるものに違いない。だからこそ覚える静かな夜の怖さなのだろう。
出演が終わると、着替えをするため、アスパムの五階にある控室へと戻った。ガラス張りのエレベーターから眼下を見ると、黒石よされの踊り手たちが輪になって躍っていた。
踊り手の影がコンクリートに落ち、影と一緒に踊るその光景は、とても美しいものだった。
しかし、一方で強く感じたのは、この影が落ちたアスファルトに眼をこらせば、しっかりとその先を見る視力があれば、きっと違う何かが見えてくるのだろうという思いだった。
まだまだ、見ていないものがたくさんある。
東北への僕の旅はまだ始まったばかりだ。
山かけの光

山かけの肖像 2011
いくつかの仕事の山が重なって、少しバタバタとした毎日を送っていた。
それでも、なんとか8月の下旬にはようやく一息つけるかなというところまでこぎつけた。
そして、旧歴8月1日、ずっと楽しみにしていた青森の大間越に向かった。
旧暦で記したのは、毎年旧の8月朔日を迎えると、大間越では山かけ行事を行うからだ。
いわゆるお山参詣とも呼ばれるが、大間越では「山かけ」と呼ばれている。
この伝統行事の目的は、普段はなかなか詣でることができない白神岳山頂の奥宮に行き、集落に暮らす、すべての人の幸いを願うというものだ。
2年前にも一度参加させてもらったので今年は、二度目の山かけとなった。
前回も感じたことだが、この山かけの一日は本当に清々しい。
早朝、集落を流れる津梅川で禊をし、里宮を詣でた後、白神岳山頂を目指すため、一歩一歩登り始める。
白神岳の標高は1200mと少し。いわゆる低山の部類だがなめてかかると大変な思いをする。
登山口は海抜0m地帯の大間越集落からほんの少しだけ高い場所。きっちり標高分は登らなくてはならない。
山かけの装束は白いシャツに豆絞り模様の手ぬぐい。白のシャツはおそらく白装束にルーツがあるのだろうが、豆絞り模様は何かの縁起ものだろうか。いずれにしろ、額にキュッとこの手ぬぐいを巻いて登っていく。
白神岳といえば、ブナの純林がイメージされるが、登山道には青森ヒバが多く自生し、案外うっそうとしている。ブナが出てくるのは五合目を過ぎたあたりからだろうか。ブナ帯まで至ると次第に登山道には光がさし始め、やがて森林限界となる。
ここまで来ると、眼下には日本海が広がる。海原はずっと下にあるはずなのに、視線の先の先にある水平線は案外高い位置に見えるのが不思議だ。
ここまでで約3時間近く。勾配は稜線に出るまで厳しく、海の青に励ましてもらって登る。
そして頂き。そこで待っていてくれるのは、ひと抱えほどの本当に小さな祠だ。それでも現在はコンクリート造り。以前は、木でできていて、修繕の際には、各部材をみんなで背負って、頂きを目指したと古老は語る。
「おらたちが背負ってあげた祠は、冬山を登った誰かが焚き火で燃やしちまっただよね」なんて笑い話もあったりする。
たっぷり汗をかいて、お堂につき、お神酒をあげてから、儀式がはじまる。
里から大切に持ってきた御幣を手にし、「サイギ、サイギ、ドッコイサイギ」と唱えながら、祠を三度まわる。
そして、御幣とお賽銭、お米などを供える。
この儀式が終わると、おにぎりを食べ、下山に取り掛かる。ただその前にひと仕事残っている。里へ持ち帰る縁起ものを採る作業だ。
それが山頂から少し下ったところにある風衝帯のハイマツやトウキで、これらのお土産を採ってからの下山となる。
こうした植物がなぜお土産かはわからないがおそらく、標高の高い白神岳に登ることでしか手に入れられないものという意味合いが強いのだろう。
下山は当然ながら長い長い下り坂だ。
次第に膝が笑いはじめ、転びそうになりながらもなんとか下っていく。
下りだけでも約3時間。なかなか大変な道のりだ。
そして、みんなでへとへとになって登山口まで辿りつくのだが、これで終わりではないのが大間越の山かけだ。
下山後には、山かけ行事の仕上げとでもいうべき、「山かけ躍り」が待っているのだ。
僕はこの山かけ躍りを見るのが本当に好きだ。
登山でへとへとになった大間越の人たちが、草鞋を履いて集落の入り口で一列に並び、太鼓、笛の響きに合わせて「白神平の陰こで/苦瓜まくらった/それでもいい山かけたほい/ソーレ、ソーレ、ソーレナと」と歌い踊りながら進んでいく。
それはとてもユーモラスな躍りで見る者に笑みを誘う。何より躍り手たちの表情がいつも素晴らしい。
村に福をもたらすため、疲れ果てて自由にならない足を大きく繰り出し、ぴょんぴょんと舞うその姿は、どこかやけくそめいていて、それでいて清々しくて、とても温かく美しいから不思議だ。
そして、そんな彼らを迎えるのは村の人と、もうひとつ、大きな光だ。
目の前に広がる日本海から、大きくてギラギラと眩しい遅い午後の光がどっと差し込んでくるのだ。
この光は本当にここだけのものだ。陽光が海に広がり、それがそのまま陸に届けられる。空の一点に過ぎない太陽が、海の大きさを得て、どこまでも広く眩しい光を生み出していく。
「白神平の陰こで/苦瓜まくらった…」
躍り手も笛も太鼓も皆、光の中に入っていくようにも見える。
大間越から帰ってくると、いつも僕の頭はこの光に占められる。
「風土」ではなく「風光」。あの土地の姿を物語るのは「土」ではなく「光」だと繰り返し思う。
旅を終えて
宮崎でのポスターの撮影が終わって帰ってきた。
梅雨明けを待って本番に望んだのだけれど、天候に恵まれず思いのほかてこずった。
先週の8日に東京入りして宮崎に飛び、それから1週間、ずっと美々津の撮影地にいた。
天候が悪いといっても、ずっと雨模様ということでもなく、空ではめまぐるしく黒い雲が流れ続けていた。
そのため、南国らしい日差しが届く時間も少なからずあり、もう少し待てば、いい空に出会えるのではと期待させられる結果となり、毎日毎日、早朝4時から日没の7時近くまで延々と三脚の前で空をにらみ続けることになってしまった。
たった一枚の写真のためにこんなに粘ることはまれなのだが、なかなかどうしてお天気の方も頑固だった。
結局、スケジュールを延長して撮影を続けたところ、ようやく最後の最後にまずまずの青空が現れ、シャッターを押すことができた。
今、この文章は東京からの新幹線で書いているのだが、帰宅後はさっそく暗室作業がはじまる。
例年だとこの暗室作業にかける時間は約1週間。ロケハンから撮影に2、3週間をかけ、フィニッシュの暗室で1週間となるのだが、実はこの暗室作業にも撮影と負けないほどの緊張が伴う。
撮影は緊張の連続ではあるが、自然条件に左右されるので、どこかでなるようにしかならないという精神状態も含まれる。
しかし、暗室は違う。撮影結果を受け、一枚の印画紙にそのイメージを落とし込む作業のすべての責任は自分にある。
難しいのは、プリントが上手くいかない場合はどのようにあの手この手を駆使してもやっぱり上手くいかないことだ。
理由は簡単で、それはネガそのものがやっぱりよくないからだ。
そういう意味では暗室作業とは、撮影そのもののクオリティーがどのようなものであったのかを突き詰める作業でもある。
僕がプリントをラボに任せられないのは、人に任せることでその部分を見失う可能性が出てくるからだ。
また、写真は撮るだけではなく、最後に一枚の印画紙に仕上げるまでが「写真」だと考えているからでもある。
エスキースだけを描き、本番を他人に描かせる画家が存在しないように、最後まで撮影者の手がかかわるべきだと思っている。
それができてはじめて、印画紙のなかに写っているもののすべてが自分自身が撮り得たもになると思う。
それが僕の写真観だ。
自宅の暗室には、たくさんの印画紙、そして現像液が待っている。
一刻も早く、あの暗い空間のなかで、遠く宮崎の空を見てみたい。
それはさておき、宮崎への旅を続けている間、ずっと頭の中にあったのは、弁造さん、市村さん、れんじさんという継続して撮らせてもらっている人たちのことだ。
今回の撮影は大変な集中力が必要なのだが、僕自身も自然と集中し、没頭するというか、その日々のなかにのめりこんでいった。
だから、三人が頭のなかで大きく存在しているということではないのだが、頭のどこか、隅というよりも芯の部分にその存在があった。
北海道の夏、弁造さんの小さな丸太小屋にひとつだけある窓には外の緑が鮮やかなに映り込み、部屋全体が緑の大気が漂うようになっているだろう。その部屋のなかで、弁造さんは朝、昼、晩と血圧を測ってグラフを描き、のどが通りにくくなったからとはさみですべての食べ物を刻んで食事し、自ら描いた絵を眺め、あーでもないこーでもないと新たに筆を入れ、くたびれたなら、好きな相撲を見たり、外に出て、少し遅れ気味の薪作りを行っているんだろうか。
岡山の小さな田舎町、市村さんは、新たな仕事場となった有機栽培農家の圃場にいて、草を抜いたり、肥料を入れたり、収穫したり、したたる汗と土埃でTシャツを黒く染めているのだろうか。そして、仕事が終われば、いつもの持ち物がとても少ない部屋に戻って、今日はたくさんがんばったからと石臼でコーヒー豆を挽いて、コーヒーの香りを楽しみ、最近興味を持ち始めた有機栽培の研究本を読んだりしているのだろうか。
夏の兆しを見せる青森大間越の漁港、れんじさんは早朝5時にいつものオーバーオールの防水作業着で現れて、親戚の船が帰ってくると刺し網から魚を外すのだろう。そして、絡まった網から魚をなかなか外せなかったりすると、仲間から「相変わらず不器用だな、おめえはよう」と笑われたりして、でも何を言われても笑顔で返すのだろう。それが終わると、自転車に乗ってすぐそばの家まで帰り、朝食を済ませた後は、いつものように、色即是空と般若心経をを唱えたり、自身の心の在りようをかたちにした自作の経典に眼を通し、日が傾くと青い釣り竿を持って再び港に行って、岸壁の下で漂う波を見つめながらタコを狙うのだろうか。
といった具合に、僕の頭の奥には、三人の自らを真摯に見つめ続ける生活の断片がずっとあって、ふとしたときに、それぞれの佇まいを思い起こした。
僕の取り巻く生活とはまったく関係のない彼らのその存在をただただ思い起こすこと。
それは僕にとって、どういうことを意味するのだろうか。
弁造さんのように、市村さんのように、れんじさんのようになっていきたいと思うこともあるけれど、やっぱり自分は自分だと思う。
でも、今の彼らの存在が間違いないなく必要だ。
それは家族という存在とも違う。
たとえるならば、錨のような存在といえばいいだろうか。
そう、世界という大海に降ろされた小さなそれでいて非常に重い錨。
どのように荒れた海であってもぶれず、たとえ、少しばかりぶれたとしても、いつの間にか、さらに重みを増して、しっかりと海の底を噛む。
この大きな世界にそうした錨がしっかりと降ろされていることの安心感。
彼らのことを思い起こすたびに、広い海に点在する小さな三つの錨を想像する。
そして、遠い地に暮らす彼らの息づかい、ファインダーの中にある佇まいをありありと思い起こす。
八木重吉はかつてこういう詩を書いた。
「心よ」
こころよ
では いっておいで
しかし
また もどっておいでね
やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで
心は常に己のなかにある。それは揺らぐことのない事実だ。
でも、少しだけ、旅に行っておいでと解き放ってやる。
心は少し遠い世界を見聞して、いい空気を吸って元気になって再び己へと舞い戻ってくる。
「こころよ では いっておいで」「やっぱり 自分が いいのだに」という繰り返し。
僕にとって、弁造さん、市村さん、れんじさんの存在は、解き放った心がしばし滞在する場所だ。
そこでは、僕自身の今の姿に少し恥ずかしい思いをすることも多いけれど、強い意志とは何たるかを知り、大きなエネルギーを得る。
そして、そんな彼らにカメラを向けられることの幸せを思う。
今晩から暗室作業の段取りを進め、明日から暗室詰めとなる。
暗闇のなかで、宮崎での時間の断片にのめり込んでいくだろう。
その一方で、暗闇のなかに三人の肉声を聞き、その姿を見つけるに違いない。

春日丸を送る 2011
梅雨明けを待って本番に望んだのだけれど、天候に恵まれず思いのほかてこずった。
先週の8日に東京入りして宮崎に飛び、それから1週間、ずっと美々津の撮影地にいた。
天候が悪いといっても、ずっと雨模様ということでもなく、空ではめまぐるしく黒い雲が流れ続けていた。
そのため、南国らしい日差しが届く時間も少なからずあり、もう少し待てば、いい空に出会えるのではと期待させられる結果となり、毎日毎日、早朝4時から日没の7時近くまで延々と三脚の前で空をにらみ続けることになってしまった。
たった一枚の写真のためにこんなに粘ることはまれなのだが、なかなかどうしてお天気の方も頑固だった。
結局、スケジュールを延長して撮影を続けたところ、ようやく最後の最後にまずまずの青空が現れ、シャッターを押すことができた。
今、この文章は東京からの新幹線で書いているのだが、帰宅後はさっそく暗室作業がはじまる。
例年だとこの暗室作業にかける時間は約1週間。ロケハンから撮影に2、3週間をかけ、フィニッシュの暗室で1週間となるのだが、実はこの暗室作業にも撮影と負けないほどの緊張が伴う。
撮影は緊張の連続ではあるが、自然条件に左右されるので、どこかでなるようにしかならないという精神状態も含まれる。
しかし、暗室は違う。撮影結果を受け、一枚の印画紙にそのイメージを落とし込む作業のすべての責任は自分にある。
難しいのは、プリントが上手くいかない場合はどのようにあの手この手を駆使してもやっぱり上手くいかないことだ。
理由は簡単で、それはネガそのものがやっぱりよくないからだ。
そういう意味では暗室作業とは、撮影そのもののクオリティーがどのようなものであったのかを突き詰める作業でもある。
僕がプリントをラボに任せられないのは、人に任せることでその部分を見失う可能性が出てくるからだ。
また、写真は撮るだけではなく、最後に一枚の印画紙に仕上げるまでが「写真」だと考えているからでもある。
エスキースだけを描き、本番を他人に描かせる画家が存在しないように、最後まで撮影者の手がかかわるべきだと思っている。
それができてはじめて、印画紙のなかに写っているもののすべてが自分自身が撮り得たもになると思う。
それが僕の写真観だ。
自宅の暗室には、たくさんの印画紙、そして現像液が待っている。
一刻も早く、あの暗い空間のなかで、遠く宮崎の空を見てみたい。
それはさておき、宮崎への旅を続けている間、ずっと頭の中にあったのは、弁造さん、市村さん、れんじさんという継続して撮らせてもらっている人たちのことだ。
今回の撮影は大変な集中力が必要なのだが、僕自身も自然と集中し、没頭するというか、その日々のなかにのめりこんでいった。
だから、三人が頭のなかで大きく存在しているということではないのだが、頭のどこか、隅というよりも芯の部分にその存在があった。
北海道の夏、弁造さんの小さな丸太小屋にひとつだけある窓には外の緑が鮮やかなに映り込み、部屋全体が緑の大気が漂うようになっているだろう。その部屋のなかで、弁造さんは朝、昼、晩と血圧を測ってグラフを描き、のどが通りにくくなったからとはさみですべての食べ物を刻んで食事し、自ら描いた絵を眺め、あーでもないこーでもないと新たに筆を入れ、くたびれたなら、好きな相撲を見たり、外に出て、少し遅れ気味の薪作りを行っているんだろうか。
岡山の小さな田舎町、市村さんは、新たな仕事場となった有機栽培農家の圃場にいて、草を抜いたり、肥料を入れたり、収穫したり、したたる汗と土埃でTシャツを黒く染めているのだろうか。そして、仕事が終われば、いつもの持ち物がとても少ない部屋に戻って、今日はたくさんがんばったからと石臼でコーヒー豆を挽いて、コーヒーの香りを楽しみ、最近興味を持ち始めた有機栽培の研究本を読んだりしているのだろうか。
夏の兆しを見せる青森大間越の漁港、れんじさんは早朝5時にいつものオーバーオールの防水作業着で現れて、親戚の船が帰ってくると刺し網から魚を外すのだろう。そして、絡まった網から魚をなかなか外せなかったりすると、仲間から「相変わらず不器用だな、おめえはよう」と笑われたりして、でも何を言われても笑顔で返すのだろう。それが終わると、自転車に乗ってすぐそばの家まで帰り、朝食を済ませた後は、いつものように、色即是空と般若心経をを唱えたり、自身の心の在りようをかたちにした自作の経典に眼を通し、日が傾くと青い釣り竿を持って再び港に行って、岸壁の下で漂う波を見つめながらタコを狙うのだろうか。
といった具合に、僕の頭の奥には、三人の自らを真摯に見つめ続ける生活の断片がずっとあって、ふとしたときに、それぞれの佇まいを思い起こした。
僕の取り巻く生活とはまったく関係のない彼らのその存在をただただ思い起こすこと。
それは僕にとって、どういうことを意味するのだろうか。
弁造さんのように、市村さんのように、れんじさんのようになっていきたいと思うこともあるけれど、やっぱり自分は自分だと思う。
でも、今の彼らの存在が間違いないなく必要だ。
それは家族という存在とも違う。
たとえるならば、錨のような存在といえばいいだろうか。
そう、世界という大海に降ろされた小さなそれでいて非常に重い錨。
どのように荒れた海であってもぶれず、たとえ、少しばかりぶれたとしても、いつの間にか、さらに重みを増して、しっかりと海の底を噛む。
この大きな世界にそうした錨がしっかりと降ろされていることの安心感。
彼らのことを思い起こすたびに、広い海に点在する小さな三つの錨を想像する。
そして、遠い地に暮らす彼らの息づかい、ファインダーの中にある佇まいをありありと思い起こす。
八木重吉はかつてこういう詩を書いた。
「心よ」
こころよ
では いっておいで
しかし
また もどっておいでね
やっぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行っておいで
心は常に己のなかにある。それは揺らぐことのない事実だ。
でも、少しだけ、旅に行っておいでと解き放ってやる。
心は少し遠い世界を見聞して、いい空気を吸って元気になって再び己へと舞い戻ってくる。
「こころよ では いっておいで」「やっぱり 自分が いいのだに」という繰り返し。
僕にとって、弁造さん、市村さん、れんじさんの存在は、解き放った心がしばし滞在する場所だ。
そこでは、僕自身の今の姿に少し恥ずかしい思いをすることも多いけれど、強い意志とは何たるかを知り、大きなエネルギーを得る。
そして、そんな彼らにカメラを向けられることの幸せを思う。
今晩から暗室作業の段取りを進め、明日から暗室詰めとなる。
暗闇のなかで、宮崎での時間の断片にのめり込んでいくだろう。
その一方で、暗闇のなかに三人の肉声を聞き、その姿を見つけるに違いない。

春日丸を送る 2011
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